しかし、これで完全にブレイクしたわけではなかった。メジロパーマーはそれから転戦した函館で出遅れるなどして2連敗。続く京都大賞典(GⅡ)でも逃げバテて大差の最下位に敗れてしまう。ここで持ち上がったのが、障害転向のプランである。
ただし、このプランはこのとき初めて持ち出されたものではない。実は3歳夏の北海道シリーズでの不甲斐ない負け方を見た調教師の大久保正陽は、調教の一環として障害を取り入れることにした。そしてハードルを飛ばせてみたところ、飛越は上々であり、走りも平地では図抜けたものがあったため、一度は障害入りを決断しようとした。
結局、上半期を終えての降級で500万下(現1勝クラス)にも出走できることになったため、そのプランはいったん見送られていたのである。
ところが今回は、本当に動いた。障害試験を受けたメジロパーマーはレコードタイムで合格し、大久保の見立て通りであることを示すと、デビューの未勝利戦では2着に6馬身差で圧勝した。ところが2戦目の400万下(現1勝クラス)戦は2着に敗れるのだが、大久保が気にしたのはこの際の飛越が低かったこと。このまま障害を走らせ続けると事故につながりかねない。そう考えた大久保は、再びメジロパーマーを平地へ戻すことにした。
6歳となった1992年。3月のコーラルステークス(オープン特別)を4着とした後、メジロパーマーは運命の騎手と出会う。当時21歳だった山田泰誠である。
ここまで重賞は未勝利で、勝ち鞍も前年は12勝と伸び悩んでいた。厳しい言い方をすると、彼が鞍上に起用されたのは、メジロパーマーが大望をかけられない存在と見られていたからであろう。
初コンビとなった天皇賞(春)は外連味のない逃げを打ったものの、最後はバテてメジロマックイーンに2秒9差で離された7着に敗れた。ところが次走に選ばれた新潟大賞典(GⅢ)で一変。54キロという恵まれたハンデも活かしてスタートからグイグイと飛ばし、後続に影をも踏ませぬ逃げ切りで2着に4馬身差をつけて完勝を飾ったのだから驚いた。
この勝利後だったが、筆者はとある件でライターをともなって大久保正陽の厩舎を訪ねていた。その取材の最中、戸がノックされて「失礼します。山田泰誠です」という挨拶があった。大久保はしばし取材を中断し、山田を建物に招き入れてこう言った。
「君はパーマーとどうも手が合うようやから、次も乗ってくれるか」
山田は緊張した表情を崩さず、「ありがとうございます」と頭を深く下げ、厩舎をあとにした。これが続く宝塚記念(GⅠ)への騎乗依頼だと気が付いたのは、しばらく経ってからのことである。(文中敬称略)<後編に続く>
文●三好達彦
【関連記事】【名馬列伝】M・デムーロを史上初の外国人ダービー騎手に導いたネオユニヴァース。短期騎手免許に特例処置設けたJRAの“粋な”英断
ただし、このプランはこのとき初めて持ち出されたものではない。実は3歳夏の北海道シリーズでの不甲斐ない負け方を見た調教師の大久保正陽は、調教の一環として障害を取り入れることにした。そしてハードルを飛ばせてみたところ、飛越は上々であり、走りも平地では図抜けたものがあったため、一度は障害入りを決断しようとした。
結局、上半期を終えての降級で500万下(現1勝クラス)にも出走できることになったため、そのプランはいったん見送られていたのである。
ところが今回は、本当に動いた。障害試験を受けたメジロパーマーはレコードタイムで合格し、大久保の見立て通りであることを示すと、デビューの未勝利戦では2着に6馬身差で圧勝した。ところが2戦目の400万下(現1勝クラス)戦は2着に敗れるのだが、大久保が気にしたのはこの際の飛越が低かったこと。このまま障害を走らせ続けると事故につながりかねない。そう考えた大久保は、再びメジロパーマーを平地へ戻すことにした。
6歳となった1992年。3月のコーラルステークス(オープン特別)を4着とした後、メジロパーマーは運命の騎手と出会う。当時21歳だった山田泰誠である。
ここまで重賞は未勝利で、勝ち鞍も前年は12勝と伸び悩んでいた。厳しい言い方をすると、彼が鞍上に起用されたのは、メジロパーマーが大望をかけられない存在と見られていたからであろう。
初コンビとなった天皇賞(春)は外連味のない逃げを打ったものの、最後はバテてメジロマックイーンに2秒9差で離された7着に敗れた。ところが次走に選ばれた新潟大賞典(GⅢ)で一変。54キロという恵まれたハンデも活かしてスタートからグイグイと飛ばし、後続に影をも踏ませぬ逃げ切りで2着に4馬身差をつけて完勝を飾ったのだから驚いた。
この勝利後だったが、筆者はとある件でライターをともなって大久保正陽の厩舎を訪ねていた。その取材の最中、戸がノックされて「失礼します。山田泰誠です」という挨拶があった。大久保はしばし取材を中断し、山田を建物に招き入れてこう言った。
「君はパーマーとどうも手が合うようやから、次も乗ってくれるか」
山田は緊張した表情を崩さず、「ありがとうございます」と頭を深く下げ、厩舎をあとにした。これが続く宝塚記念(GⅠ)への騎乗依頼だと気が付いたのは、しばらく経ってからのことである。(文中敬称略)<後編に続く>
文●三好達彦
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