2011年3月11日、14時46分。宮城県沖を震源とする巨大地震が東北を中心とする東日本を襲った。マグニチュード9.0、最大震度「7」という日本観測史上最大の値を示すメガクエイクは建物に壊滅的な被害を与えたのみならず、最大で高さ40mにも及ぶ津波を引き起こして街と多くの命を飲み込んだ。そして、東京電力福島第一原子力発電所も地震と津波で大きなダメージを受けて全電源が停止し、炉心がメルトダウン(溶解)を起こして大量の放射能が漏出するという大事故を引き起こす。無論、日本中が大パニックとなり、悲嘆に暮れた。
その悲報は、ドバイワールドカップ・ミーティングのため、3月10日に当地へ入っていた日本馬の陣営にもすぐ届いた。あまりの惨状に打ちひしがれながらも、遠く中東の地から直接力になることはできない。そんななか、厩舎スタッフは「HOPE」の文字が入ったポロシャツを着用し、せめて日本へいい報せを届けたいと日々の作業と向き合った。
皐月賞、有馬記念のGⅠタイトルを持つヴィクトワールピサをすでに現地へ送り込んでいた調教師の角居勝彦は、日本で震災に遭遇した。動揺し、また悲劇に打ちひしがれた人たちのニュースを観るにつけ、「競馬のために海外へ行っていいのか」という疑問に苛まれた。しかしそれでも、自分たちにできるのは日本に吉報を知らせることしかないと心を決め、空路ドバイへ入ったと、のちに明かしている。
ダート競馬の世界チャンピオンを決める趣旨で1996年に創設されたドバイワールドカップ(G1、ナドアルシバ・ダート2000m)は、2010年に大きく舵を切った。当時、コースコンディションを維持しやすいとして世界中で導入が進んだオールウェザートラック(全天候馬場)にコースを変更(競馬場も新設のメイダンに移転)した。
すると、プレップレースとなるマクトゥームチャレンジ・ラウンド3(G2、メイダン・AW2000m)を日本から参戦した秋華賞馬レッドディザイアが快勝。そして第2回を除いて初回より米国馬とドバイ調教馬(サイード・ビン・スルール厩舎所属馬)の草刈り場となっていたワールドカップを、ブラジルからフランスへ移籍したグロリアデカンペオン(Gloria de Campeao)が制覇。トラックの性質が従前の米国流ダートとは変質したことをその結果が示唆していた。それを敏感に察した角居は、芝しか経験のないヴィクトワールピサをドバイへ送り込むプランを立てたのだった。
角居は早くからいくつもの海外遠征を成功させ、「世界のスミイ」の異名をいただく存在だった。2005年にシーザリオでアメリカンオークス(G1、サンタアニタ・芝10ハロン)を制したのを皮切りに、同年の香港マイル(G1、シャティン・芝1600m)をハットトリックが、2006年には豪州の名物レースであるメルボルンカップ(G1、フレミントン・芝3200m)をデルタブルースで制覇。そして、2006年のカネヒキリ(4着)に次いでドバイワールドカップへ挑戦させたのがヴィクトワールピサだった。
その悲報は、ドバイワールドカップ・ミーティングのため、3月10日に当地へ入っていた日本馬の陣営にもすぐ届いた。あまりの惨状に打ちひしがれながらも、遠く中東の地から直接力になることはできない。そんななか、厩舎スタッフは「HOPE」の文字が入ったポロシャツを着用し、せめて日本へいい報せを届けたいと日々の作業と向き合った。
皐月賞、有馬記念のGⅠタイトルを持つヴィクトワールピサをすでに現地へ送り込んでいた調教師の角居勝彦は、日本で震災に遭遇した。動揺し、また悲劇に打ちひしがれた人たちのニュースを観るにつけ、「競馬のために海外へ行っていいのか」という疑問に苛まれた。しかしそれでも、自分たちにできるのは日本に吉報を知らせることしかないと心を決め、空路ドバイへ入ったと、のちに明かしている。
ダート競馬の世界チャンピオンを決める趣旨で1996年に創設されたドバイワールドカップ(G1、ナドアルシバ・ダート2000m)は、2010年に大きく舵を切った。当時、コースコンディションを維持しやすいとして世界中で導入が進んだオールウェザートラック(全天候馬場)にコースを変更(競馬場も新設のメイダンに移転)した。
すると、プレップレースとなるマクトゥームチャレンジ・ラウンド3(G2、メイダン・AW2000m)を日本から参戦した秋華賞馬レッドディザイアが快勝。そして第2回を除いて初回より米国馬とドバイ調教馬(サイード・ビン・スルール厩舎所属馬)の草刈り場となっていたワールドカップを、ブラジルからフランスへ移籍したグロリアデカンペオン(Gloria de Campeao)が制覇。トラックの性質が従前の米国流ダートとは変質したことをその結果が示唆していた。それを敏感に察した角居は、芝しか経験のないヴィクトワールピサをドバイへ送り込むプランを立てたのだった。
角居は早くからいくつもの海外遠征を成功させ、「世界のスミイ」の異名をいただく存在だった。2005年にシーザリオでアメリカンオークス(G1、サンタアニタ・芝10ハロン)を制したのを皮切りに、同年の香港マイル(G1、シャティン・芝1600m)をハットトリックが、2006年には豪州の名物レースであるメルボルンカップ(G1、フレミントン・芝3200m)をデルタブルースで制覇。そして、2006年のカネヒキリ(4着)に次いでドバイワールドカップへ挑戦させたのがヴィクトワールピサだった。