明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。ソフトボール界のレジェンドである宇津木妙子さんが登場。ソフトボールを始めたきっかけや選手時代の活躍、指導者転身後の取り組み、女子ソフトボール日本代表監督として挑んだ2度の五輪、ソフトボール普及への熱い思い、さらには今後の目標やアスリートの食生活まで幅広く語ってくれた。
ーー埼玉県のご出身ですが、小さい頃はどんな少女だったんですか?
幼少期はまさに山猿(笑)。当時はまだスポーツ少年団もなく、近所の子供たちで集まって神社で三角ベースをしたり、夏は川で泳いだり、冬は田んぼでスケートをしたりといろんな遊びをしていました。竹を切ってバット替わりにするとか、いつも工夫をしていましたね。足が速かったので、かけっこは得意でした。小学校対抗の総合運動会があって、勝つと周りのおじいちゃんやおばあちゃんが喜んでくれました。それが何より嬉しかった記憶がありますね。
ーーソフトボールとの出会いは?
近所に2つ上の先輩がいて、その人がソフトボールをやっていたので「一緒にやらないか」と誘われたのが入部のきっかけです。顧問の先生から「人間は同じ親から生まれてもみんな性格や個性が違う。宇津木の一番の長所をソフトボールを通して伸ばして、みんなで協力して県大会に優勝しよう」と言われたのも胸に響きました。それぞれの長所を伸ばしてチームや試合の中に役立てようと思うなら、やっぱり練習をするしかない。私も監督になった時、同じような思いでチーム作りを進めました。
ーーポジションは内野ですよね。
そうですね。でも最初は外野だったんです。その後、キャッチャーもやって、ファースト以外の内野を全てやった。ピッチャーをやったこともありますよ。器用貧乏みたいに使われましたけど、それが長く現役を続けられた1つの要因かなと思っています。1つのポジションだけだと慣れも出てきますから。
私が代表監督をやっていた時も、メンバーが15人しかいないので、ピッチャー以外の選手は2つのポジションやってもらうのを基本にしていました。キャッチャーは内野兼任、外野も全てのポジションをやるといった感じで回していましたね。
ーー若い頃の宇津木さんはどんな選手だったんですか?
チャレンジすることが好きでしたね。今の時代は子供たちに「自分で考えなさい」と言いますけど、当時は「何かすると叱られるから、どうやって監督に怒られないようにするかを考える」のが常でした。ある意味、冒険心の強い選手だったんですよね。先輩に対してもすごく生意気だったかな(苦笑)。今は反省しているところもありますけど、言うべきことは言うタイプの人間でした。
ーー当時のエピソードはありますか?
ユニチカに入って早い時期に「私をキャプテンにさせてください。絶対に勝たせますから」と部長に直談判しに行ったことですね(笑)。当時のユニチカは日本リーグ1部で最下位。「これだけの選手がいるのに何で勝てないんだろう」と疑問に感じていました。
そこで思い当たったのが、全体練習後の自主トレです。先輩に「なんで練習中にしっかりやらないで、練習後にやるんだ」と言われて、私からすると「下手だから自分で練習するのは当たり前じゃないか」とカチンと来たんです。「環境を変えたい」と思ってその後の直談判につながったんでしょうね。
でも、入社1年目の自分はレギュラーにもなれていなかったし、実績もなかった。その時はもちろん認められなくて、2年目もダメで、3年目にやっとキャプテン就任にこぎつけました。そこで私が最初に取り組んだのは、「5冠」というチームの目標達成のために1人1人が何をすべきかを書いてもらうこと。それをグランドに出る前に必ず大声で宣言してから練習に入るというのをルーティンにしたんです。その年から成績が急上昇し、タイトルも取れた。練習も「納得するまでやろう」と自主トレの制限を撤廃しましたし、全員の目の色が変わりましたね。
ーー当時まだ21歳ですよね?
そうですね。ホントに生意気で出しゃばりですよね(苦笑)。でも強くなりたいという気持ちが物凄く強かったんです。寮に住んでいる一般社員との関わり方も変えました。自分がキャプテンになるまでは「寮生とは関わったらダメ」というルールがあったんですけど、そういう人たちに応援してもらった方が選手もやる気が出る。関係改善を図ってからはファンクラブもできましたし、今も当時の寮生が応援してくれています。誰かに後押しされるのは本当に有難いですし、力が湧いてくるものなんです。
ーー埼玉県のご出身ですが、小さい頃はどんな少女だったんですか?
幼少期はまさに山猿(笑)。当時はまだスポーツ少年団もなく、近所の子供たちで集まって神社で三角ベースをしたり、夏は川で泳いだり、冬は田んぼでスケートをしたりといろんな遊びをしていました。竹を切ってバット替わりにするとか、いつも工夫をしていましたね。足が速かったので、かけっこは得意でした。小学校対抗の総合運動会があって、勝つと周りのおじいちゃんやおばあちゃんが喜んでくれました。それが何より嬉しかった記憶がありますね。
ーーソフトボールとの出会いは?
近所に2つ上の先輩がいて、その人がソフトボールをやっていたので「一緒にやらないか」と誘われたのが入部のきっかけです。顧問の先生から「人間は同じ親から生まれてもみんな性格や個性が違う。宇津木の一番の長所をソフトボールを通して伸ばして、みんなで協力して県大会に優勝しよう」と言われたのも胸に響きました。それぞれの長所を伸ばしてチームや試合の中に役立てようと思うなら、やっぱり練習をするしかない。私も監督になった時、同じような思いでチーム作りを進めました。
ーーポジションは内野ですよね。
そうですね。でも最初は外野だったんです。その後、キャッチャーもやって、ファースト以外の内野を全てやった。ピッチャーをやったこともありますよ。器用貧乏みたいに使われましたけど、それが長く現役を続けられた1つの要因かなと思っています。1つのポジションだけだと慣れも出てきますから。
私が代表監督をやっていた時も、メンバーが15人しかいないので、ピッチャー以外の選手は2つのポジションやってもらうのを基本にしていました。キャッチャーは内野兼任、外野も全てのポジションをやるといった感じで回していましたね。
ーー若い頃の宇津木さんはどんな選手だったんですか?
チャレンジすることが好きでしたね。今の時代は子供たちに「自分で考えなさい」と言いますけど、当時は「何かすると叱られるから、どうやって監督に怒られないようにするかを考える」のが常でした。ある意味、冒険心の強い選手だったんですよね。先輩に対してもすごく生意気だったかな(苦笑)。今は反省しているところもありますけど、言うべきことは言うタイプの人間でした。
ーー当時のエピソードはありますか?
ユニチカに入って早い時期に「私をキャプテンにさせてください。絶対に勝たせますから」と部長に直談判しに行ったことですね(笑)。当時のユニチカは日本リーグ1部で最下位。「これだけの選手がいるのに何で勝てないんだろう」と疑問に感じていました。
そこで思い当たったのが、全体練習後の自主トレです。先輩に「なんで練習中にしっかりやらないで、練習後にやるんだ」と言われて、私からすると「下手だから自分で練習するのは当たり前じゃないか」とカチンと来たんです。「環境を変えたい」と思ってその後の直談判につながったんでしょうね。
でも、入社1年目の自分はレギュラーにもなれていなかったし、実績もなかった。その時はもちろん認められなくて、2年目もダメで、3年目にやっとキャプテン就任にこぎつけました。そこで私が最初に取り組んだのは、「5冠」というチームの目標達成のために1人1人が何をすべきかを書いてもらうこと。それをグランドに出る前に必ず大声で宣言してから練習に入るというのをルーティンにしたんです。その年から成績が急上昇し、タイトルも取れた。練習も「納得するまでやろう」と自主トレの制限を撤廃しましたし、全員の目の色が変わりましたね。
ーー当時まだ21歳ですよね?
そうですね。ホントに生意気で出しゃばりですよね(苦笑)。でも強くなりたいという気持ちが物凄く強かったんです。寮に住んでいる一般社員との関わり方も変えました。自分がキャプテンになるまでは「寮生とは関わったらダメ」というルールがあったんですけど、そういう人たちに応援してもらった方が選手もやる気が出る。関係改善を図ってからはファンクラブもできましたし、今も当時の寮生が応援してくれています。誰かに後押しされるのは本当に有難いですし、力が湧いてくるものなんです。