明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。2024年パリ五輪で一世を風靡したブレイキンの福島あゆみさん(ダンサーネーム=AYUMI)が登場。ブレイキンを始めたきっかけや取り組み、パリ五輪までの道のり、今後の目標やアスリートの食生活まで幅広く語ってくれた。
――21歳からブレイキンを始めた福島さんですが、幼少期はどんな少女だったんですか?
体を動かすことが好きで小学生の頃は水泳、その後はバレーボール、テニス、剣道などいろんなことにチャレンジしていました。本格的にやっていたのは中学時代のテニス部でしたね。3年間、自分たちの学年のキャプテンをやっていたんですけど、全然うまくなかったんです(苦笑)。他のメンバーの子たちの方がうまかったので、京都の大会にも出ましたけど、自分はずっと補欠だった記憶がありますね。
そこまで運動神経もよくなかったし、体育の成績もだいたい3。普通の人よりもできないくらいの子供でした。ただ、新しいことに対して抵抗はなくて、何でも楽しんでトライできる方だった。そこがよかったのかもしれません。
――ダンスは?
中学3年生から高校の時にヒップホップを習いに行っていました。姉(梨絵さん=ダンサーネーム=NARUMI)はその影響からブレイキンに出会い、かなり本格的に取り組んでいましたが、私は最初はやっていませんでした。高校時代は留学するつもりでアルバイトに勤しんでいました。留学はアメリカに行きたいと思っていたんですが、父に「治安が心配だからダメ」と言われてしまい、「カナダなら大丈夫だから」と説得してバンクーバーに行きました。そこで語学学校に入り、カレッジにも通ったので、5年ほど暮らしましたね。
――ブレイキンと出会ったのはカナダから一時帰国した時だったんですね。
はい。姉がやっていたので、日本に滞在した2か月間、まず練習して、カナダに戻ってから本格的に取り組みましたね。でも最初はどこで練習すればいいのかも分からない。「どうしよう」と思いつつ、たまたまカフェでお茶をしていた時に、ヘルメットを持ったB-BOYらしき日本人を見つけて、勇気を出して話しかけ、その流れで練習場所に連れていってもらいました。
その人は稲垣修二さんという大先輩で、前日にワーキングホリデーでカナダに到着したばかりだった。そんなことがあるのかというくらいの偶然が起きて、仲間ができ、輪が広がって、のめりこんでいった感じです。まさにご縁ですね。
――なるほど。最初はどんなふうにテクニックを習得していったんですか?
多くの人はブレイキンというとグルグル回ったりするのをイメージすると思うのですが、私はそういうことに興味があった方ではなかったんです。どちらかというと、フットワークをどんどん刻んでいくような「スタイルムーブ」と呼ばれるスタイルが好きで、そちらを自分なりにやっていました。「ブレイキンは基礎が大事だ」と言われて、基礎を叩き込むことは意識的にやりましたが、その後はもう勝手というか、自己流で取り組んでいきました。バトルには早く出た方が良いとアドバイスを受け、ブレイキンを始めてすぐにでました。
――25歳で帰国。京都に戻ってからの活動は?
まず一般企業で勤めて、事務の仕事をしていました。帰国して1年後くらいに姉と他のメンバーが作ったチームであるBODY CARNIVAL(ボディ・カーニバル)に入って、日中は仕事をして夜に練習する生活をコロナ前まで15年近く続けましたね。最後は12~13年いた日本語学校。生徒のカウンセリングや事務の仕事、英語を教えたりもしていて、遠征に行くためにかなり融通を利かせてもらいブレイキンの活動を応援して頂きました。
――ブレイキンのバトルは2000年代から沢山あったんですか?
はい。姉から「ブレイキンはバトルが中心だからどんどん出た方がいい」と言われて、最初に出たのは始めて1カ月後。留学から戻った後は毎週末のようにどこかの大会に参加していました。そのうち海外に行くことも増えてきて、仕事を休まなければならない時もあったんですけど、職場の方々も「頑張って」と応援してくれました。そういう人たちの支えがあったから、ブレイキンを続けられたと思います。
――福島さんにとってターニングポイントとなった大会は?
2013年にアメリカで開催されたアウトブレイクという大会ですね。そこで自分をすごく解放して踊れたんです。結果的にはトップ4で負けてしまったんですが、「自分を出し切った」という気持ちになれた。世界的にトップレベルの人たちにも挑めましたし、本当にいい経験になりました。
――その時点では選手としての立ち位置も理解できたのでは?
いやいや全然ですね。バトルを楽しんでいただけで、「日本で何番手」といった感覚はなかったですから。五輪などのブレイキンは男女で分かれてますけど、もともとはミックスバトルが普通のカルチャーなので、私はバトルに出るとすぐに負けていましたね。
ただ、2010年代は自分としても意欲的に海外へ出ていったし、目指す大会もレベルも上がっていたのは確か。「ネクストレベルに行きたい」と思って頑張っていましたね。
――21歳からブレイキンを始めた福島さんですが、幼少期はどんな少女だったんですか?
体を動かすことが好きで小学生の頃は水泳、その後はバレーボール、テニス、剣道などいろんなことにチャレンジしていました。本格的にやっていたのは中学時代のテニス部でしたね。3年間、自分たちの学年のキャプテンをやっていたんですけど、全然うまくなかったんです(苦笑)。他のメンバーの子たちの方がうまかったので、京都の大会にも出ましたけど、自分はずっと補欠だった記憶がありますね。
そこまで運動神経もよくなかったし、体育の成績もだいたい3。普通の人よりもできないくらいの子供でした。ただ、新しいことに対して抵抗はなくて、何でも楽しんでトライできる方だった。そこがよかったのかもしれません。
――ダンスは?
中学3年生から高校の時にヒップホップを習いに行っていました。姉(梨絵さん=ダンサーネーム=NARUMI)はその影響からブレイキンに出会い、かなり本格的に取り組んでいましたが、私は最初はやっていませんでした。高校時代は留学するつもりでアルバイトに勤しんでいました。留学はアメリカに行きたいと思っていたんですが、父に「治安が心配だからダメ」と言われてしまい、「カナダなら大丈夫だから」と説得してバンクーバーに行きました。そこで語学学校に入り、カレッジにも通ったので、5年ほど暮らしましたね。
――ブレイキンと出会ったのはカナダから一時帰国した時だったんですね。
はい。姉がやっていたので、日本に滞在した2か月間、まず練習して、カナダに戻ってから本格的に取り組みましたね。でも最初はどこで練習すればいいのかも分からない。「どうしよう」と思いつつ、たまたまカフェでお茶をしていた時に、ヘルメットを持ったB-BOYらしき日本人を見つけて、勇気を出して話しかけ、その流れで練習場所に連れていってもらいました。
その人は稲垣修二さんという大先輩で、前日にワーキングホリデーでカナダに到着したばかりだった。そんなことがあるのかというくらいの偶然が起きて、仲間ができ、輪が広がって、のめりこんでいった感じです。まさにご縁ですね。
――なるほど。最初はどんなふうにテクニックを習得していったんですか?
多くの人はブレイキンというとグルグル回ったりするのをイメージすると思うのですが、私はそういうことに興味があった方ではなかったんです。どちらかというと、フットワークをどんどん刻んでいくような「スタイルムーブ」と呼ばれるスタイルが好きで、そちらを自分なりにやっていました。「ブレイキンは基礎が大事だ」と言われて、基礎を叩き込むことは意識的にやりましたが、その後はもう勝手というか、自己流で取り組んでいきました。バトルには早く出た方が良いとアドバイスを受け、ブレイキンを始めてすぐにでました。
――25歳で帰国。京都に戻ってからの活動は?
まず一般企業で勤めて、事務の仕事をしていました。帰国して1年後くらいに姉と他のメンバーが作ったチームであるBODY CARNIVAL(ボディ・カーニバル)に入って、日中は仕事をして夜に練習する生活をコロナ前まで15年近く続けましたね。最後は12~13年いた日本語学校。生徒のカウンセリングや事務の仕事、英語を教えたりもしていて、遠征に行くためにかなり融通を利かせてもらいブレイキンの活動を応援して頂きました。
――ブレイキンのバトルは2000年代から沢山あったんですか?
はい。姉から「ブレイキンはバトルが中心だからどんどん出た方がいい」と言われて、最初に出たのは始めて1カ月後。留学から戻った後は毎週末のようにどこかの大会に参加していました。そのうち海外に行くことも増えてきて、仕事を休まなければならない時もあったんですけど、職場の方々も「頑張って」と応援してくれました。そういう人たちの支えがあったから、ブレイキンを続けられたと思います。
――福島さんにとってターニングポイントとなった大会は?
2013年にアメリカで開催されたアウトブレイクという大会ですね。そこで自分をすごく解放して踊れたんです。結果的にはトップ4で負けてしまったんですが、「自分を出し切った」という気持ちになれた。世界的にトップレベルの人たちにも挑めましたし、本当にいい経験になりました。
――その時点では選手としての立ち位置も理解できたのでは?
いやいや全然ですね。バトルを楽しんでいただけで、「日本で何番手」といった感覚はなかったですから。五輪などのブレイキンは男女で分かれてますけど、もともとはミックスバトルが普通のカルチャーなので、私はバトルに出るとすぐに負けていましたね。
ただ、2010年代は自分としても意欲的に海外へ出ていったし、目指す大会もレベルも上がっていたのは確か。「ネクストレベルに行きたい」と思って頑張っていましたね。