直後の8月には飛び級でU-16日本代表に選出。同年冬には県選抜の一員として挑んだ“第23回JOCジュニアオリンピックカップ”で最優秀選手にも選ばれた。
迎えた高校生活。次世代を担う有望株は、様々な強豪校からオファーを受けた中で驚きの選択をする。当時開校2年目の博多高に入学したのだ。実績がまるでないチームでのチャレンジ。当時の決断を部井久はこう振り返る。
「実は別の高校を志望していて、そのチームの監督とも話をしました。全国レベルの選手が集まるとも聞いていて、実際に僕らの代で全国3冠(3月の選抜大会、夏のインターハイ、10月の国体)を達成したんです。
でも、中学の時の夏の全国大会で考えが変わりました。僕たちのチームが準決勝で敗退した時に、『もう1回このメンバーで上を目指したい』と感じたんです。博多高にも選手が集まり始めていて、(中学校時代の仲間と)一からやるのも『自分の為になる』と思い、夏の大会後に博多高への進学を決めました」
新設校とあって苦戦も予想された。しかし、部井久は自身の才能に磨きをかけていく。入学後は1年から試合に出場し、2年では相次ぐ怪我に見舞われながらも世代別代表へ継続的に招集。さらに2世代の飛び級でU-22代表に呼ばれるなど、世代を代表するプレーヤーとして名を馳せていった。そして、高校3年の7月。日本ハンドボール界史上初となる高校生でのフル代表選出を果たしたのだ。
ただ、本人はここまでの飛躍を予期していなかったという。
「自分が想像していた3倍以上のスピードで変化をしていきました。高校で達成したい目標として、『チームと個人で日本一になり、世代別代表に選ばれて世界大会に必ず出ること』を掲げていたんです。フル代表や海外の相手と戦うのは大学以降の話だと思っていました」
博多高では日本一を掴めなかったが、自身の描いていたビジョンとは異なる早さで掴んだフル代表入り。「日々の生活をハンドボールにつなげる人ばかり」のナショナルチームで過ごした時間は、自身の考え方を大きく変えた。プレー面やピッチ外での取り組み。食事の摂り方も含めた身体作りの重要性も学び、選手としてさらに成長を遂げていく契機となった。
迎えた高校生活。次世代を担う有望株は、様々な強豪校からオファーを受けた中で驚きの選択をする。当時開校2年目の博多高に入学したのだ。実績がまるでないチームでのチャレンジ。当時の決断を部井久はこう振り返る。
「実は別の高校を志望していて、そのチームの監督とも話をしました。全国レベルの選手が集まるとも聞いていて、実際に僕らの代で全国3冠(3月の選抜大会、夏のインターハイ、10月の国体)を達成したんです。
でも、中学の時の夏の全国大会で考えが変わりました。僕たちのチームが準決勝で敗退した時に、『もう1回このメンバーで上を目指したい』と感じたんです。博多高にも選手が集まり始めていて、(中学校時代の仲間と)一からやるのも『自分の為になる』と思い、夏の大会後に博多高への進学を決めました」
新設校とあって苦戦も予想された。しかし、部井久は自身の才能に磨きをかけていく。入学後は1年から試合に出場し、2年では相次ぐ怪我に見舞われながらも世代別代表へ継続的に招集。さらに2世代の飛び級でU-22代表に呼ばれるなど、世代を代表するプレーヤーとして名を馳せていった。そして、高校3年の7月。日本ハンドボール界史上初となる高校生でのフル代表選出を果たしたのだ。
ただ、本人はここまでの飛躍を予期していなかったという。
「自分が想像していた3倍以上のスピードで変化をしていきました。高校で達成したい目標として、『チームと個人で日本一になり、世代別代表に選ばれて世界大会に必ず出ること』を掲げていたんです。フル代表や海外の相手と戦うのは大学以降の話だと思っていました」
博多高では日本一を掴めなかったが、自身の描いていたビジョンとは異なる早さで掴んだフル代表入り。「日々の生活をハンドボールにつなげる人ばかり」のナショナルチームで過ごした時間は、自身の考え方を大きく変えた。プレー面やピッチ外での取り組み。食事の摂り方も含めた身体作りの重要性も学び、選手としてさらに成長を遂げていく契機となった。