その要因の一つは、のちに「シャドーロールの怪物」という異名で呼ばれるようにもなったある矯正馬具の装着によると言われる。当時、自分の影にさえ驚くような臆病な性格だった彼の気性を考慮し、スタッフは下方(足もと)の視界をさえぎるため、鼻の上に付ける馬具、『シャドーロール』を付けさせることにしたのだ。
その甲斐あってか、京都3歳ステークス(現・京都2歳ステークス)を3馬身差で快勝すると、朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)も2着に3馬身半差をつけて圧勝。JRA賞最優秀3歳牡馬(現・最優秀2歳牡馬)に選出された。
翌年、3歳になったナリタブライアンは共同通信杯4歳ステークス(現・共同通信杯)、から日本ダービーまでいずれも圧倒的な力で制していく。ちなみに、エリートコースに乗った馬はレース数を絞って大事に走らせるのが当たり前になっている今から見ると、10戦ものキャリアを積み、しかも3敗も喫していたダービー馬(二冠馬)というのはかなり異質な存在だった。
三冠制覇を目指す秋、ナリタブライアンは思わぬ躓きを見せる。
ステップレースに選んだ京都新聞杯では単勝元返し(1.0倍!)で出走した二冠馬は、直線へ向いていったん先頭に立ったものの、インから強襲したスターマンにクビ差競り負けて、連勝は6でストップしてしまったのだ。
のちに管理調教師の大久保正陽(当時)が明かしたことによると、ナリタブライアンはひどく”夏負け”(人でいう”夏バテ”)してしまい、一時は京都新聞杯はおろか、菊花賞への出走さえ危ぶまれる状況にあったのだという。
それでも、一度の敗戦を喫したところで、それを意に介さないような上昇を見せるのが並みの名馬ではないところ。菊花賞でラクラクと三冠制覇を成し遂げ(半兄のビワハヤヒデとの兄弟連覇でもあった)、古馬との初対戦となった有馬記念もぶっちぎってしまうのだから、凄まじい強さの前にすべてのホースマンがただただ首を垂れるしかなかった。
それまで”日本競馬史上最強馬”と言われたシンボリルドルフを育て、愛馬に強固なプライドを持ち続けていた野平祐二(調教師、当時)をして、「現時点ではルドルフより上かもしれない」と言わしめるほどだった。
その甲斐あってか、京都3歳ステークス(現・京都2歳ステークス)を3馬身差で快勝すると、朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)も2着に3馬身半差をつけて圧勝。JRA賞最優秀3歳牡馬(現・最優秀2歳牡馬)に選出された。
翌年、3歳になったナリタブライアンは共同通信杯4歳ステークス(現・共同通信杯)、から日本ダービーまでいずれも圧倒的な力で制していく。ちなみに、エリートコースに乗った馬はレース数を絞って大事に走らせるのが当たり前になっている今から見ると、10戦ものキャリアを積み、しかも3敗も喫していたダービー馬(二冠馬)というのはかなり異質な存在だった。
三冠制覇を目指す秋、ナリタブライアンは思わぬ躓きを見せる。
ステップレースに選んだ京都新聞杯では単勝元返し(1.0倍!)で出走した二冠馬は、直線へ向いていったん先頭に立ったものの、インから強襲したスターマンにクビ差競り負けて、連勝は6でストップしてしまったのだ。
のちに管理調教師の大久保正陽(当時)が明かしたことによると、ナリタブライアンはひどく”夏負け”(人でいう”夏バテ”)してしまい、一時は京都新聞杯はおろか、菊花賞への出走さえ危ぶまれる状況にあったのだという。
それでも、一度の敗戦を喫したところで、それを意に介さないような上昇を見せるのが並みの名馬ではないところ。菊花賞でラクラクと三冠制覇を成し遂げ(半兄のビワハヤヒデとの兄弟連覇でもあった)、古馬との初対戦となった有馬記念もぶっちぎってしまうのだから、凄まじい強さの前にすべてのホースマンがただただ首を垂れるしかなかった。
それまで”日本競馬史上最強馬”と言われたシンボリルドルフを育て、愛馬に強固なプライドを持ち続けていた野平祐二(調教師、当時)をして、「現時点ではルドルフより上かもしれない」と言わしめるほどだった。