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【名馬列伝】ナリタブライアンはどれだけ”強かった”のか?「シャドーロールの怪物」が歩んだ”かなり異質”な三冠への道のり

三好達彦

2021.05.30

 4歳になった1995年、始動戦の阪神大賞典をほとんど”追ったところナシ”で7馬身差を付ける圧勝を遂げて、まさに無人の野を行くような異次元の走りを見せたナリタブライアンだったが、右股関節炎という思わぬ故障に見舞われ、目標の天皇賞(春)への出走を断念して休養に入った。その怪我を機に急激に輝きを失っていく。

 それでもただ一度だけ、ナリタブライアンはファンに最後の輝きを見せることになる。

 96年の阪神大賞典は、前年の菊花賞と有馬記念を連勝したマヤノトップガンとの一騎打ちとの前評判だったが、文字どおり、まるで2頭だけで勝敗を争うマッチレースであるかのような壮絶なバトルが展開された。
 
 怪我で戦列を離れていた名パートナーの南井克巳にかわって武豊が手綱をとったナリタブライアンと、鬼才・田原成貴を背にしたマヤノトップガンは2周目の第3コーナーすぎから馬体を併せると、後続を引き離しながら約400mにもわたって、お互いに一歩も譲らぬ激闘を繰り広げ、並んだままでゴール。ファンが固唾を飲んで待った写真判定の結果がナリタブライアンのアタマ差での勝利と出た瞬間、スタンドからは歓声とともに、GⅡ戦としては異例の”ユタカ・コール”が沸き上がるほどの熱気が渦巻いた。

 このレースは25年が経ったいまも語り草となり、1977年の有馬記念でテンポイントとトウショウボーイが展開した”マッチレース”とともに、JRA史上に残る名勝負と謳われている。

 種牡馬入りしてわずか2年後の1998年の6月に急死し、目立った産駒を残せなかったナリタブライアンだが、3歳時の1994年に発した眩いばかりの輝きとその鮮烈すぎる強さはショッキングとさえ言えるものだった。

 そして彼の記録と記憶に残る走りの数々は”レジェンド”の名に相応しいものだった。

文●三好達彦

【関連動画】大外から豪快に差し切り!ナリタブライアンが強さを見せつけた1994年ダービーのJRA公式動画はこちら
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