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格闘技・プロレス

長州との激闘は今も色褪せない。新日本プロレス50周年記念で“創立メンバー”藤波辰爾が語った新日への愛

どら増田

2022.03.06

名だたるレジェンドたちが顔を揃えた50周年記念大会。往年のファンにとってはたまらない選手たちが久々にセルリアンブルーのマットの上に立った。(C)Getty Images

名だたるレジェンドたちが顔を揃えた50周年記念大会。往年のファンにとってはたまらない選手たちが久々にセルリアンブルーのマットの上に立った。(C)Getty Images

 ここで私は、いわゆる“タイガーロス”になってしまった。だが、新日本から離れていく友だちがたくさんいるなか、藤波がいる限りは応援しようと子ども心ながらに誓った。ちなみに、どら増田の“どら”は、藤波のニックネームである「ドラゴン」が由来となっている。

 1983年4月3日、蔵前国技館(現在は両国へ移設)大会で、藤波が保持していたWWFインターナショナルヘビー級王座に、革命軍団(後の維新軍)をマサ齋藤と結成した長州が挑戦した試合は、新日本50年の歴史を語るうえで、タイガーのデビュー戦とともに欠かせない試合である。

 この試合に至るまで、反則絡みの決着が続いていた両雄だが、この大一番だけは、ただの喧嘩ファイトではなく、猪木時代のプロレスとは違った斬新なストロングスタイルを繰り広げた。

 今見ても色褪せないほど、とにかくスピーディー。最後は膝を痛めた藤波を長州が強引なラリアットで3カウントを奪取してタイトルは移動した。藤波ファンの私にとっては、今でも悔しい結末ではあるが、この試合を越える闘いは長州の引退までなかった。

 ただ、タイガー引退で団体としても、人気低迷の危機に陥った新日本を藤波と長州の名勝負数え唄が救ったのは事実である。

 長州は1984年9月に新日本を離脱。ジャパンプロレスを旗揚げし、新日本のライバル全日本プロレスを主戦場にした。後の1987年にUターンして新日本に復帰するのだが、この間も団体を守り続けたのは、藤波だった。

 藤波は、全日本のエース、ジャンボ鶴田との対戦を夢に描いていた。唯一、1990年2月10日の東京ドーム大会に鶴田が出場したときが、チャンスだったが、この時は藤波が腰痛で欠場。最後までファン待望の対決は実現しなかった。

 後に「あの時がチャンスだったよね。あの日は会場で観てて、悔しかった。その思いが全日本の会場に向かわせたんだよね」と語った藤波は、同年5月にアポなしで全日本の東京体育館大会を訪問。ジャイアント馬場、鶴田らに挨拶をしている。

 馬場は日本プロレスの後輩でもある藤波に「何かあったら言って来いよ」と話し、大会を観戦する藤波の姿は日本テレビ系『全日本プロレス中継』にも抜かれていた。日本テレビに新日本の選手が映るのは当時としては画期的なことだった。
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