■ストイックに競技を追求した高校・大学時代
――そして、日体大柏高校に進みます。
当時、千葉で一番の高校から学費免除の話もいただいていました。でもなかなかタイミングが合わず、練習参加に行けないままだったんですが、日体大柏には小6くらいから練習に行かせてもらっていて、居心地のよさを感じていました。そして最終的に進路選択となった時、「やっぱり日体だね」と。授業料や寮費、遠征費などの費用負担は大きかったんですけど、両親も賛成してくれたので、進むことを決めました。
――高校時代はどんな時間でしたか?
ストイックに空手に取り組めた時間でした。中学までは実家暮らしで町道場に通う形だったので、競技生活に没頭するわけではなかったんですが、高校生の時は授業、午後練の他にも自主的に朝練、夜練をして、1日がすぐ終わってしまう感じでした。それだけ空手に集中していたということなんですよね。
寮も近かったですし、学校でもスポーツメンタルや栄養学の授業があったりして、かなり恵まれていましたね。顧問の先生が栄養士だったんで、食事のこともかなり学びました。
監督は英語の先生だったんですけど、厳しくも優しい方。「他のチームはこういう練習をしてるみたいなんで、私もやりたいです」といったことを遠慮なく言える関係性があったので、伸び伸びと活動できました。監督が学生時代に1年間休学して海外1周した話を聞いたりして、グローバルな考え方に刺激も受けましたね。
実は今、日体大柏で子供たちを教えているんですが、監督が私をリスペクトしてくれて、生活指導や事務的な部分を全てやってくれているので、すごく有難いです。そういう環境を作ってくれたからこそ、自分がトップレベルに行けたんだと感謝しています。
――日体大柏は他競技も強いですよね。
はい。サッカー部は全国トップクラスですし、柏レイソルのユースで活躍している仲間もいました。同期が表彰されて、自分がされないのは悔しかったし、すごく刺激を受けました。帝京大学時代もチアリーディングやラグビー部がすごく強かったんで、学ぶことは多かったですね。
――帝京大学に進んだのは?
帝京と日本大学から推薦の話をいただいたんですけど、学費免除で体育教員免許を取れるのが帝京だったんで、そちらを選びました。父からも「空手日本一の大学から特待の話が来ているのに行かない理由があるの」と言われて、背中を押されましたね。
私は子供の頃から可愛がられて育ってきたせいか、優柔不断なところがあって、イザという時に決断できないタイプなんです(苦笑)。そこが自分の課題だと思っています。
――お父さんの勧めで行った大学時代は?
厳しい環境で、男女一緒の全寮生活ということもあり、最初はカルチャーショックを受けました(苦笑)。でも日本一の先輩方が近くにいたので、「こういうふうに歩んでいけば自分も頂点に立てる」と思えたし、道筋が見えた気がしましたね。
本当に強い人は人として優しいんですよね。大学1年の時に私が「やめたい」と言い出した時、先輩は一切そのことには触れずに気を使ってくれました。「今日はキツかったね」「植草、ちゃんとご飯食べた?」「両親に連絡できてる?」と言葉をかけてくれて、心から励まされた。徐々に結果もついてくるようになりました。
――大学2年時には大学選手権(インカレ)制覇を果たしました。
はい。転機は大学1年のインカレで2位になったことですね。「私は強いんだ」と思えて、厳しい練習も楽しめるようになりました。そして2年の時にインカレを制覇し、世界学生選手権でも2位、世界選手権で3位と立て続けに好成績を残せた。夢に見ていた日本一にも手が届くという手ごたえをつかんだんです。
これを機に3~4年は競技への向き合い方も変わりました。大きかったのはラグビー部のフィジカルトレーナーとの出会い。その方が受け持っている授業があって、私は勝手にそこに入り込んで「世界一になりたいんだけど、長距離走がすごく遅いんです。それが原因だと思うんですが」とプレゼンしたんです。最初はヘンな子だと思われたけど、「授業を受けたいのだったらどうぞ」と言われ、筋トレも見てもらうようになりましたね。
――かなり積極的ですね。
そうですね(笑)。これをきっかけにラグビー部と一緒に筋トレするようになりました。彼らが朝食後グラム単位で測って食べている姿を目の当たりにして、自分にはないものが沢山あるなと痛感しました。それで貪欲に高みを目指すようになり、大学3年時にワールドゲームズ(2013年コロンビア大会)で優勝したんです。
でも4年の時はまた3位になってしまった。そこでそのトレーナーに「社会人になるタイミングで私と契約してください」とお願いして、そのまま東京五輪まで見てもらう形にしていただきました。
――そして、日体大柏高校に進みます。
当時、千葉で一番の高校から学費免除の話もいただいていました。でもなかなかタイミングが合わず、練習参加に行けないままだったんですが、日体大柏には小6くらいから練習に行かせてもらっていて、居心地のよさを感じていました。そして最終的に進路選択となった時、「やっぱり日体だね」と。授業料や寮費、遠征費などの費用負担は大きかったんですけど、両親も賛成してくれたので、進むことを決めました。
――高校時代はどんな時間でしたか?
ストイックに空手に取り組めた時間でした。中学までは実家暮らしで町道場に通う形だったので、競技生活に没頭するわけではなかったんですが、高校生の時は授業、午後練の他にも自主的に朝練、夜練をして、1日がすぐ終わってしまう感じでした。それだけ空手に集中していたということなんですよね。
寮も近かったですし、学校でもスポーツメンタルや栄養学の授業があったりして、かなり恵まれていましたね。顧問の先生が栄養士だったんで、食事のこともかなり学びました。
監督は英語の先生だったんですけど、厳しくも優しい方。「他のチームはこういう練習をしてるみたいなんで、私もやりたいです」といったことを遠慮なく言える関係性があったので、伸び伸びと活動できました。監督が学生時代に1年間休学して海外1周した話を聞いたりして、グローバルな考え方に刺激も受けましたね。
実は今、日体大柏で子供たちを教えているんですが、監督が私をリスペクトしてくれて、生活指導や事務的な部分を全てやってくれているので、すごく有難いです。そういう環境を作ってくれたからこそ、自分がトップレベルに行けたんだと感謝しています。
――日体大柏は他競技も強いですよね。
はい。サッカー部は全国トップクラスですし、柏レイソルのユースで活躍している仲間もいました。同期が表彰されて、自分がされないのは悔しかったし、すごく刺激を受けました。帝京大学時代もチアリーディングやラグビー部がすごく強かったんで、学ぶことは多かったですね。
――帝京大学に進んだのは?
帝京と日本大学から推薦の話をいただいたんですけど、学費免除で体育教員免許を取れるのが帝京だったんで、そちらを選びました。父からも「空手日本一の大学から特待の話が来ているのに行かない理由があるの」と言われて、背中を押されましたね。
私は子供の頃から可愛がられて育ってきたせいか、優柔不断なところがあって、イザという時に決断できないタイプなんです(苦笑)。そこが自分の課題だと思っています。
――お父さんの勧めで行った大学時代は?
厳しい環境で、男女一緒の全寮生活ということもあり、最初はカルチャーショックを受けました(苦笑)。でも日本一の先輩方が近くにいたので、「こういうふうに歩んでいけば自分も頂点に立てる」と思えたし、道筋が見えた気がしましたね。
本当に強い人は人として優しいんですよね。大学1年の時に私が「やめたい」と言い出した時、先輩は一切そのことには触れずに気を使ってくれました。「今日はキツかったね」「植草、ちゃんとご飯食べた?」「両親に連絡できてる?」と言葉をかけてくれて、心から励まされた。徐々に結果もついてくるようになりました。
――大学2年時には大学選手権(インカレ)制覇を果たしました。
はい。転機は大学1年のインカレで2位になったことですね。「私は強いんだ」と思えて、厳しい練習も楽しめるようになりました。そして2年の時にインカレを制覇し、世界学生選手権でも2位、世界選手権で3位と立て続けに好成績を残せた。夢に見ていた日本一にも手が届くという手ごたえをつかんだんです。
これを機に3~4年は競技への向き合い方も変わりました。大きかったのはラグビー部のフィジカルトレーナーとの出会い。その方が受け持っている授業があって、私は勝手にそこに入り込んで「世界一になりたいんだけど、長距離走がすごく遅いんです。それが原因だと思うんですが」とプレゼンしたんです。最初はヘンな子だと思われたけど、「授業を受けたいのだったらどうぞ」と言われ、筋トレも見てもらうようになりましたね。
――かなり積極的ですね。
そうですね(笑)。これをきっかけにラグビー部と一緒に筋トレするようになりました。彼らが朝食後グラム単位で測って食べている姿を目の当たりにして、自分にはないものが沢山あるなと痛感しました。それで貪欲に高みを目指すようになり、大学3年時にワールドゲームズ(2013年コロンビア大会)で優勝したんです。
でも4年の時はまた3位になってしまった。そこでそのトレーナーに「社会人になるタイミングで私と契約してください」とお願いして、そのまま東京五輪まで見てもらう形にしていただきました。