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食と体調管理

「子どもたちが公園でラグビーをしてくれる日が来るなんて」田中史朗が感じる日本ラグビーの変化と成長。過酷な競技を続けるための食習慣

吉田治良

2023.08.01

写真:GettyImages

写真:GettyImages

■日本代表への責任感

──卒業後は、当時の三洋電機(現埼玉パナソニックワイルドナイツ)に入られますが、すでにトップリーグ(現リーグワン)で戦える手応えはあったんですか?

 それはなかったですね。本当に身体能力は高いほうではなかったので。ただ、元オールブラックスのスタンドオフ、トニー・ブラウン(現日本代表アシスタントコーチ)とずっと一緒にプレーしていたので、彼に怒られたりしながら少しずつレベルアップして、徐々に自信が付いてきた感じですね。

 ずっと世界のラグビーを見てきましたが、世界のトップ・オブ・トップのスクラムハーフはもっとスピードがあって、パスも速かったですし、あらゆる面で見劣りしていました。ただ、だからこそ人一倍努力しなくてはいけないとも思いましたね。

──それでも、1年目からスクラムハーフのレギュラーを獲得。トップリーグの新人賞に輝き、ベストフィフティーンにも選出されました。

 それはもうチームのおかげです。周りに良い選手がたくさんいて、1年目から優勝(07―08シーズン)させてもらいましたからね。

──自分のプレーに確信が持てたのは、いつ頃からですか?

 やっぱり、エディー・ジョーンズ(元日本代表ヘッドコーチ/現オーストラリア代表ヘッドコーチ)と一緒にラグビーをするようになってからですね。本当にプロということを意識させてもらいましたし、自分はラグビーのプロフェッショナルとして、日本代表として生きていくんだって、強く思えるようになりました。
 
──エディーさんの教えで、一番印象に残っているのは?

 特別な言葉というよりも、日本代表に対する意識ですね。代表として、世界を相手に戦うとは、どういうことなのか。僕だけじゃなく、すべての選手の意識を変えてくれました。こうしていま、日本ラグビーが世界から注目してもらえるようになった、その土台をエディーが作ってくれたと思います。

──エディーさんのトレーニングは相当きつかったと聞きます。

 本当にしんどかったですね(苦笑)。きつすぎて、付いていけずに代表をあきらめた選手もいましたから。4部練、5部練が普通、朝も5時とか6時に起きてトレーニングだったので正直ラグビーが嫌いになった時期もありましたね。まだ若かったので、なんとかついていけました。

──田中選手はスーパーラグビー(ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカの南半球3か国のプロチームで競うリーグ戦)のハイランダーズでプレーされています。日本人として初めて、世界最高峰リーグに挑戦されたきっかけは?

 初めて出場した11年のワールドカップがきっかけですね。1勝もできずに帰国した時、当たり前かもしれませんが、空港には記者の方が3人くらいいただけで、ファンの方は誰も出迎えてくれなかったんです。

 メディアにもほとんど取り上げられなくて、「このままでは日本ラグビーが終わってしまう、誰かがなんとかしなきゃいけない」と思ったんです。だから自分が何かアクションを起こして、日本ラグビーを盛り上げようって。

──12年に加入したニュージーランドのハイランダーズでは、現在の日本代表ヘッドコーチ、ジェイミー・ジョセフさんの指導を受けられましたが、実際にスーパーラグビーを戦ってみて、いかがでしたか?

 レベルが高すぎましたね。日本基準の意識の中でやっていたら、世界のトップでは戦えないと痛感させられました。だからこそエディーが代表チームに来てくれた時には、僕も彼に乗っかって、「もっと意識しないと、絶対に世界では勝てへんよ」と、周りの選手に言い続けたんです。

 そこに説得力があったのも、やっぱりスーパーラグビーを経験していたからだし、みんなが僕や堀江(翔太/13年にスーパーラグビーのレベルズでプレー)の言葉に耳を傾けてくれたんだと思います。もちろんエディーもガンガン言ってくれましたし、そこで日本ラグビーに対するみんなの意識が、ガラッと変わりましたね。

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