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食と体調管理

「長くトップで活躍し続けることでこれからのバレーボール界の指標になりたい」大怪我を乗り越えて東京五輪出場を果たした清水邦広の新たな目標と日々を支える食習慣

元川悦子

2023.09.01

写真:APアフロ

写真:APアフロ

■日本代表での活躍と葛藤

――大学3年だった2007年には日本代表に初選出されました。

 最初はメンバー登録されただけで、合宿に呼ばれることはなかったんです。福澤は高3から合宿に参加して、大学1年で試合にも出ていました。

 そんな時、ワールドリーグ(現在のネーションズリーグ)の日本ラウンドでオポジットがいなくなるアクシデントがあって、僕が呼ばれることになりました。

 金曜の夜に「来てくれるか」と連絡があってすぐ合流して、土曜の朝にセッターと少し合わせて、そのまま午後のフランス戦に出場しました。突然のことでしたが、不思議な縁で当時のフランスチームの監督がのちに日本代表で指導を受けるフィリップ・ブラン監督でした。

――翌2008年の北京五輪には最年少で出場しました。悔しい結果になりましたが振り返るといかがでしょうか?

 チームは五輪に出ることはできました。でも、当時の日本代表は「五輪出場」までが目標で、本番に立つ前に目標が達成されてしまった。それで気が抜けるというか、すでにメンタル的に負けていた。他の国は目の色を変えて勝ちにくる姿に圧倒されてしまって、1勝もできずに終わりました。

――五輪での悔しい経験を経て2009年にパナソニック入りされると、いままでライバルだった福澤選手と初めて同僚になりました。

 福澤には大学で勝つことができたので、今度は一緒にバレーをしたいと思っていました。僕はチーム加入1年目からMVPに選んでいただきました。Vリーグで評価されることはもちろん嬉しかったですが、五輪の経験があって僕も福澤もVリーグだけではなく日本代表として勝つこと、活躍することがずっと意識にありました。

 その日本代表では2012年ロンドン・2016年リオの両五輪を逃してしまい、「どうしたら世界で勝てるのか」「外国人と日本人の違いは何なのか」をずっと考える日々が続いていました。ロンドンのときには「日本人は高さやパワーで勝てない」という思考にハマってしまい、なかなか抜け出せない時期もありましたね。

 でも、そんな中で新たな世代がどんどん代表に入ってきて、特に石川祐希(パワーバレー・ミラノ)や柳田将洋(東京グレートベアーズ)といった選手たちと一緒にやっていく中で、日本は世界相手でも勝てるチームに変わっていったと思います。

 もう1つ大きなきっかけになったのが、2016年にパンサーズに加入したミハウ・クアビク選手の存在でした。彼は身長が192センチとバレー選手ではそこまで大きくないのに世界のトップで戦っていた。

 彼を見て、高さやパワーだけが勝敗を決めるわけじゃないんだと改めて気づかされました。もっと技術を磨いていけば、高さやパワーで負けていてもスパイクは決められるということを教えてもらったんですよね。それはもの凄く大きなことでした。

――その時期が清水さんにとっての変革期だったんですね。

 僕だけではなく日本代表も世界のバレーボールに慣れてきたのだと思います。昔は国内で合宿をして、日本のメンバーだけでA・B戦をして、少し親善試合をしてから本番に挑むような形でしたけど、リオ五輪前から海外との実戦を増やして外国人のプレーに慣れて、その中で技を磨いて本番を戦うというスタイルに変化しました。

 リオ五輪の1年前くらいにフランスと合同練習をしたとき、高いスパイクやブロック、強いサーブがきても全然やれるという気持ちになっていました。世界の壁はどんどんなくなっていったし、むしろ「日本人の体格でも勝てるんだ」と思えるようになったんです。

 逆に外国人選手に「日本の何が嫌なのか?」と尋ねると、「ディフェンス力」だと言われることが多いんですよ。粘り強いディフェンスから何度も攻撃して、最終的に相手のコートにボールが落ちれば得点ですから、つなぎの部分を磨けばいい。「それがあるから日本チームは強いんだ」と言われて、そこが大事だったんだと感じながら取り組み続けました。
■東京五輪へ

――東京五輪に力強く向かっていった矢先の2018年2月、予期せぬ大ケガが清水さんを襲います。

 2018年2月18日の(Vファイナルステージ・)JT(サンダーズ広島戦)で、着地した時に右ひざを捻りました。診断結果は、右ひざ前十字じん帯および内側側副じん帯の断裂、半月板損傷、軟骨損傷で全治12か月という重症。

 最初の2~3週間はもう絶望的な気持ちでしたね。パンサーズのマネージャーさんに「チームメートであろうが誰にも会いたくないからお見舞いは一切、断って。1人にさせてほしい」とお願いするほどでした。

 でも福澤は手術が終わったらすぐに駆けつけてきて、「お前、何言ってんだ」といつものように明るく接してくれました。たわいもない話をしていると気が紛れたけど、1人になると落ち込む…。

 しばらくはそれの繰り返しでした。その後も感染症にかかったりして、結局、4カ月くらい入院する羽目になった。メンタル的には本当に厳しい時期でしたね。

――そこからどうやって這い上がったんですか?

 パンサーズのコーチのマウリシオや福澤、同期のメンバーに励ましてもらいましたし、ファンの方から5万羽くらいの千羽鶴も届けていただきました。

 改めて「自分はこれだけ沢山の人たちに応援してもらってるんだ」と気づかされたし、「1人で頑張ってこれたわけじゃない」とすごく感じることができた。恩返しするためには、もう1回復活してバレーボールをする姿を見せるしかないとも思いました。そこから少しずつ前向きになって、リハビリも頑張れました。
 

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