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【名馬列伝】日本競馬史上初の五冠馬・シンザンの生涯。実況アナが思わず「消えた!」と叫んだ伝説のラストラン

三好達彦

2024.03.17

 ただひとつ、シンザンには困ったことがあった。後肢の脚力が強まるにつれて踏み込みが深くなり、前肢の蹄鉄にぶつかって出血するようになったことである。ここで武田は一計を案じた。装蹄師と相談し、後肢に付ける蹄鉄の前方に空気穴の開いたカバーを付け、同時に前肢の蹄鉄にはT字型のブリッジを渡した、俗称『シンザン鉄』と呼ばれる、当時としては画期的な蹄鉄を考案。これでシンザンのストロングポイントを生かしつつ、同時に怪我を避けることに成功した。

 皐月賞を勝ったシンザンだったが、日本ダービー(GⅠ、東京・芝2400m)に向けての調整が思うように進まず、当時あった平場のオープン(東京・芝1800m)をひと叩きして本番に臨むことを決める。案の定というべきか、ここでシンザンは格下の馬を捉え切れずに2着に終わり、初の敗北を喫する。

 しかし、これもまたシンザンの特徴として挙げられるのだが、現役を退くまでに4度の黒星のうち平場のオープンだけで計3敗しているのだ。誤解を恐れずに言えば、当時はビッグレースに向けての叩き台として設けられたレースという意味合いがあり、ここで敗れてもさして気にするものでもなかった。あったのは、調教を含めて「シンザンは金にならないときは走らない」という皮肉交じりのジョークぐらいだった。

 迎えた日本ダービーは、皐月賞3着のあと、NHK杯を勝って勢いに乗るウメノチカラとの一騎打ちという前評判通りとなった。4コーナーで外を回ったシンザンに対し、ウメノチカラは内を突いて先頭に立つが、シンザンは栗田にステッキを入れられると敢然とそれを差し返し、1馬身1/4差を付けて二冠制覇を見事に達成した。走破タイムの2分28秒8は当時のレコードタイムだった。
 
 シンザンが三冠制覇で、一番苦しんだのは菊花賞(GⅠ、京都・芝3000m)だった。

 原因は、いわゆる「夏バテ」。京都競馬場の自厩舎で夏を過ごしていたが、その年の京都は酷暑に見舞われ、厩舎に扇風機を持ち込んだり、氷柱を吊るしたりと対策を講じたが、シンザンの体熱はなかなか下がらず、平熱に戻るまで1か月を要した。そのため本格的な調教を始める時期が10月の初頭までずれ込み、武田は叩き台レースを使いながら仕上げる策をとることにした。

 10月の平場オープンは2着に終わると、続いて出走した11月の京都杯(京都・芝1800m)でも2着と連敗。陣営はシンザンの調子が上向いてきたことを感じていたが、マスコミやファンには懐疑的な見解も多く、菊花賞ではセントライト記念と平場オープンを連勝していたダービー2着のウメノチカラに単勝1番人気を譲ることになった。

 菊花賞は同年の桜花賞、オークスを制した二冠牝馬のカネケヤキが大逃げを打つダイナミックなレースとなったが、シンザンは最終コーナーを回るまで追い出しを待ち、満を持して直線で追い出されると豪快な伸びを見せてウメノチカラに2馬身半差をつけて快勝。1941年のセントライト以来となる史上2頭目、戦後初の三冠馬の座に輝いた。
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