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【名馬列伝】日本競馬史上初の五冠馬・シンザンの生涯。実況アナが思わず「消えた!」と叫んだ伝説のラストラン

三好達彦

2024.03.17

 シンザンは4歳になってから天皇賞(秋)、有馬記念を制して「五冠馬」と称されるようになった(※宝塚記念にも勝っているが、当時は格が足りないとして「冠」には加えられていない)。

 なかでも伝説となっているのは、結果的にラストランとなった1965年の有馬記念(GⅠ、中山・芝2600m)でのアクロバティックな勝利である。

 1960年代の中央競馬をリードしたトップジョッキーであり、「闘将」とも呼ばれた加賀武見は逃げ馬に乗るのを得意としていた。生憎の雨で極度に馬場状態が悪化した有馬記念で、加賀は逃げ馬のミハルカスで天皇賞(秋)でシンザンの3着に敗れていたが、引き続き手綱をとることが決まったとき、ある策略を思いついた。それは、逃げを打って最終コーナーを回ったら大外へ進路をとり、シンザンを馬場が悪い内を走らざるを得ないよう誘い込もうとしたのである。

 加賀の奇策は成功するかに見えた。ミハルカスは最後の直線で大外へ進路をとり、そこへシンザンが迫ってきたからだ。しかし、栗田の起こしたトラブルが原因でシンザンの手綱をとることになった松本善登は、ミハルカスのさらに外、外ラチ沿いへと進路をとった。そのためテレビの画面では、シンザンの姿がラチ沿いまで埋まった群衆に隠れて見えなくなり、中継のアナウンサーは「シンザンが消えた!」と実況。しかし何秒か後にその姿が見えた瞬間、シンザンはすでにミハルカスを差し切って先頭に立っており、悠々と「五冠」目のゴールを駆け抜けていったのだった。
 
 当時の生産地では、輸入種牡馬と比べて内国産種牡馬の評価は著しく低く、シンザンとて例外ではなかった。初年度は評価が高いとはいえない交配相手を40頭ほど集めるのがやっとだったが、2年目の産駒からシングンという重賞勝ち馬(金鯱賞、朝日チャレンジカップ)が出た。これをきっかけに種牡馬としてのシンザンが見直され、81年の菊花賞馬ミナガワマンナ、85年の皐月賞と菊花賞、87年の天皇賞(春)を制したミホシンザンを送り出し、のちの内国産種牡馬に活躍の場を与えるベースを作った。

 種牡馬から退いた後も、種牡馬として繋養されていた北海道・浦河町の谷川牧場で余生を過ごし、1996年7月13日に老衰で没した。35歳102日を生き抜いての大往生で、それは当時の日本における軽種馬の最長寿記録だった。

 能力の高さはもちろん、ビッグレースでの勝負強さからシンザンは別格の高い評価を受け、それは戦後の日本競馬における最高傑作にして、軽々には超えがたい巨大な目標として存在した。

「シンザンを超えろ」――。この言葉が長く生産者、厩舎関係者にとってのスローガンとして掲げられた。

 武田文吾は1960年に皐月賞、日本ダービーを制した名馬コダマを育て上げており、コダマとシンザンを比べて評した、あまりに有名な言葉を最後に記しておきたい。

「コダマは剃刀(カミソリ)、シンザンは鉈(ナタ)の切れ味。ただし、シンザンの鉈はヒゲも剃れる鉈である」

(文中敬称略)

文●三好達彦

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