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競馬

【名馬列伝】”ミスター競馬” 野平祐二に「スーちゃん」と呼ばれ、愛されたスピードシンボリ。現代競馬の礎を作った歴史的名馬の激闘譜

三好達彦

2024.07.22

 次走の日本経済賞も制して4連勝としたスピードシンボリのもとに嬉しい報せが届く。1962年のタカマガハラ(10着)、1964年のリユウフオーレル(8着)に続き、米国のワシントンD.C.インターナショナルに日本馬として3頭目となる招待を受けたのである。

 早くから欧州へ渡って見分を広め、また種牡馬や繁殖牝馬を輸入するなど(スピードシンボリの祖母は母スイートインを受胎した状態で輸入された)、海外志向が非常に強かった和田は、この招待を快諾。同じく海外への憧憬が強かった”盟友”野平祐二とともに米国へ渡る。結果は9頭立ての5着だったが、これは欧米とは格段の差があった当時としては大健闘と言っていい成績である。この経験は和田と野平を大いに勇気づけ、翌年決行する大遠征への重要なステップとなった。

 迎えた1969年、6歳になったスピードシンボリは目黒記念(春)とダイヤモンドステークスに勝ち、アルゼンチンJCCを2着としたあと欧州へ雄飛。英国からフランスへと転戦するツアーに挑んだ。

 初戦のロイヤル・アスコット開催であるキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークスは4角先頭の積極策であわやと思わせたが、タフな馬場に伸びを欠いて5着。しかし、欧州から「極東の後進国」と見られていた当時の日本馬としては、今で言うところの爪痕を残す結果だった。
 
 次いでフランスへ渡ったスピードシンボリは、まずドーヴィル大賞に出走して10着。そして、そのあと日本馬にとって「世界最高峰」のターゲットとしてセッティングされる凱旋門賞に初めて挑戦。後方から進んで直線に賭けたが、ここでもタフな馬場に苦しんで着外(11着以下)に沈んだ。

 欧州遠征で大きなダメージを受けたスピードシンボリはやせ細り、野平の口を借りれば「それは見るも哀れな」状態で、とても有馬記念に使えるとは思えなかったという。しかし、和田は「ファン投票で上位になったら出さないわけにはいかない」との立場をとり、二人の意見は食い違った。そんななか、スピードシンボリは日ごと奇跡的に体調を回復し、どうにか有馬記念に間に合った。

 長期にわたる遠征で体調が不安視されたことから6番人気にとどまったスピードシンボリだったが、後方からレースを進めると第3コーナーからまくり気味に位置を押し上げて直線へ。そして坂の途中で先頭に躍り出ると、猛追するアカネテンリュウをハナ差抑えて優勝を果たした。

 この時の様子を、スピードシンボリを「スーちゃん」と呼んで愛し続けた野平の口から直接聞いたことがある。

「スーちゃんはとても我慢強いから、多少体調が良くなくても走ってしまう。この時も直線で苦しがって『ヒー、ヒー』と鳴きながら走っていましてね。そんなスーちゃんにステッキを入れるのは本当に辛かったのですが、そこまで来たらむざむざ負けるわけにはいかない。『ごめんな、ごめんな』と心で泣きながら追っていたんです」
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