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NBA

ビル・ラッセル——ディフェンスでNBAに革命を起こした男が“真の勝者”となるまで【NBAレジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2022.08.14

ファイナルMVPにその名が冠されているように、ラッセルは“真の勝者”だった。(C)Getty Images

ファイナルMVPにその名が冠されているように、ラッセルは“真の勝者”だった。(C)Getty Images

 7月31日に88歳で死去したビル・ラッセルは、NBAファイナルの最優秀選手賞にその名を残している。ファイナルMVPは、ほかならぬマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)の6回が最多受賞記録。マジック・ジョンソン(元ロサンゼルス・レイカーズ)も3回受賞しているが、ラッセル自身の受賞経験は一度もない。賞の創設が1969年で、ラッセルの引退した年だったからだが、なぜジョーダンを差し置いてラッセルの名が冠されたのか?

 そんな疑問は、ラッセルの現役時代を振り返ればたちどころに解消される。アメリカプロスポーツ史上、空前絶後のリーグ8連覇を成し遂げたボストン・セルティックスの大黒柱。今なお史上最高の選手として彼の名を挙げる者も少なくないのだ。
 
■ラッセルが確立した“守備こそ勝利のカギ”

 NBA創設時からの歴史を持つセルティックスも、当初から強いチームではなかった。1950年にレッド・アワーバックがヘッドコーチになり、“コート上の魔術師”ボブ・クージーがポイントガードに定着してからも、 ファイナルには進めずにいた。

 その原因は、強力なビッグマンの不在にあった。1955-56シーズンはジャック・ニコルズの625リバウンドがチーム最多で、リーグでは12位。 平均失点105.3も同ワーストだった。1956年のドラフトで、 セルティックスがターゲットをラッセルに絞ったのも、そうした状況を考えれば当然だった。

 ルイジアナ州生まれ、オークランド育ちのラッセルは、高校時代まではさほど注目されていなかった。だがサンフランシスコ大に進学後は、並み外れた身体能力と天性のタイミングによってリバウンドとブロックショットを量産。大学3年間の通算成績は20.7点、20.3リバウンド。1955、56年にはNCAA選手権2連覇、56連勝も記録した。

 ところがセルティックスは、1巡目の指名権をテリトリアル・ピック (地域優先指名)でトム・ハインソーン獲得のために使っていた。そこでアワーバックは、2位指名権を持つセントルイス(現アトランタ)・ホークスにトレードを打診。セントルイス出身で、オールスターに6年連続で出場していたエド・マコーリーとクリフ・ヘイガンの2選手を差し出し、商談は成立した。
 
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