大谷翔平(エンジェルス)の二刀流にさらに磨きがかかっている。バッティングは相変わらず絶好調、序盤戦は制球が定まらなかった投球の安定感も増し、7月6日のレッドソックス戦では今季4勝目を挙げた。今の投球内容をキープできれば、1918年のベーブ・ルース(13勝・11本塁打)以来となる、シーズン2ケタ勝利&2ケタ本塁打も達成可能だろう。
ところが、実は大谷がこの記録を達成しても厳密には「ルース以来2人目」とはならない。ルースの4年後、22年に2ケタ勝利&2ケタ本塁打をクリアした選手がいるからだ。にもかかわらず、その事実が話題に上ることはほとんどない。それは彼が「メジャーリーガー」と認められたのがつい最近だったためである。
その男の名はブレット・ローガン。98年には野球殿堂入りも果たしている、れっきとした名選手であるにもかかわらず、これまでメジャーリーガー扱いされていなかったのは、白人球界から拒絶された黒人たちが集まるニグロリーグの選手だったからだ。
本名はチャールズ・ウィルバー・ローガンで、その速球から"ブレット(弾丸)"の異名で呼ばれた。あまりの球威に、捕手は厚切りのステーキ肉を2枚ミットに挟んでいたという逸話もある。変化球も多彩で、ニグロリーグで最多勝2回、最優秀防御率1回。打者としても通算打率.338をマークし、黒人球界の生き字引だったバック・オニールは「アーニー・バンクス(MVP受賞2回の強打者)にそっくりの打撃だった」と語っている。
二刀流のピークだったのが22年で、26試合に登板して14勝、118奪三振はいずれもリーグ2位、防御率2.83は3位。この他、外野などで48試合(合計74試合)に出場し打率.369(6位)、15本塁打(2位)を放った。2ケタ本塁打を打ったのはこの年だけで、通算では120勝、50本塁打、693安打という数字が残っている。
しかしながら、彼のニグロリーグでの成績は詳細がいまなお完全には分かっていない。22年の勝利数も、数年前まで14勝ではなく8勝とされていた。ニグロリーグでは公式記録が管理されていなかった上、対戦相手もリーグの加盟球団に限らず、各地を巡業して回った町のチームと対戦したりしていたからである。22年のリーグ順位表を見ても、球団ごとに消化した試合数はばらばら。きっちり組織されていたリーグではなかったのだ。
ところが、実は大谷がこの記録を達成しても厳密には「ルース以来2人目」とはならない。ルースの4年後、22年に2ケタ勝利&2ケタ本塁打をクリアした選手がいるからだ。にもかかわらず、その事実が話題に上ることはほとんどない。それは彼が「メジャーリーガー」と認められたのがつい最近だったためである。
その男の名はブレット・ローガン。98年には野球殿堂入りも果たしている、れっきとした名選手であるにもかかわらず、これまでメジャーリーガー扱いされていなかったのは、白人球界から拒絶された黒人たちが集まるニグロリーグの選手だったからだ。
本名はチャールズ・ウィルバー・ローガンで、その速球から"ブレット(弾丸)"の異名で呼ばれた。あまりの球威に、捕手は厚切りのステーキ肉を2枚ミットに挟んでいたという逸話もある。変化球も多彩で、ニグロリーグで最多勝2回、最優秀防御率1回。打者としても通算打率.338をマークし、黒人球界の生き字引だったバック・オニールは「アーニー・バンクス(MVP受賞2回の強打者)にそっくりの打撃だった」と語っている。
二刀流のピークだったのが22年で、26試合に登板して14勝、118奪三振はいずれもリーグ2位、防御率2.83は3位。この他、外野などで48試合(合計74試合)に出場し打率.369(6位)、15本塁打(2位)を放った。2ケタ本塁打を打ったのはこの年だけで、通算では120勝、50本塁打、693安打という数字が残っている。
しかしながら、彼のニグロリーグでの成績は詳細がいまなお完全には分かっていない。22年の勝利数も、数年前まで14勝ではなく8勝とされていた。ニグロリーグでは公式記録が管理されていなかった上、対戦相手もリーグの加盟球団に限らず、各地を巡業して回った町のチームと対戦したりしていたからである。22年のリーグ順位表を見ても、球団ごとに消化した試合数はばらばら。きっちり組織されていたリーグではなかったのだ。