大学2年の春、いきなりノーヒットノーランを達成し脚光を浴びることになった竹内大助。慶大のエースとして、大学野球の名だたるスター選手たちと渡り合いながら、プロを目指し努力を続けてきた。
だが、失意のドラフト指名漏れ。そして、捲土重来を期して進んだ社会人野球での苦節。沈みかけた野球人生を蘇らせたのは、プロ野球から来た六大学の先輩選手との出会いだった。
第3話となる今回は、助監督就任に至る竹内の現役生活の後半生をクローズアップする。
―――◆――◆――◆―――
「どこの球団でも、何位でもいいからプロに行きたい」
2012年のドラフト当日、竹内は祈るような気持ちで指名を待っていた。しかし、同僚の福谷浩司が中日から1位指名を受けるのを横目に、無念の指名漏れに終わる。
慶大の江藤省三監督も、竹内は自身が見いだした愛弟子だけに、なんとか希望を叶えさせてあげたい気持ちはあった。とはいえ、指名があるか微妙な位置にいることもわかっていたため、「せっかく社会人の誘いもあるのだし、育成の指名ならやめたほうがいいぞ」とアドバイスをしていた。かつてプロ野球で球団編成の職に就いていたこともあり、内部事情はよく知っている。
「左腕は貴重だし、どこの球団も調査はしていたみたいだけどね。スカウトというのは、4年生の春の活躍を重視するんだよ。竹内はそこで状態が今ひとつだったから、『もう頭打ちだな』という感じで評価を落とした球団もあったらしい。
でも、それも一概には言い切れないんだ。だって、福谷も4年の春は内転筋の怪我でほとんど投げられなかったんだからさ。まあ、福谷は大学JAPANでの実績もあったから、治ったら上積みがあると思われたんだろうね」
プロを目指す竹内にとって、いささか不運な流れがあった。彼が台頭してきた当時は六大学全体に力のある左投手が少なく、希少価値という見方をされていた。しかし、下の学年から法大の石田健大(現DeNA)や明大の山崎福也(現オリックス)といったイキの良い左投手が活躍し始めたために評価のハードルが上がってしまった。
実際に指名漏れの後、江藤に「どこも獲らないのなら、ほしかったなぁ」と言ってきたスカウトがいたという。よその球団が獲るという情報があり、上位指名でなければ獲れないと判断し、その球団は指名リストから外していたようだ。
悔しさを押し殺し、竹内はプロ待ちで採用内定の出ていたトヨタ自動車に入社する。愛知県半田市出身の竹内にとっては地元でもある。しかし、定住するつもりはなかった。実績を残して2年後にプロ入りするつもりだった。
1年、2年、3年……。何も出来ないまま、時間だけがあっという間に過ぎていった。
竹内はオープン戦などで与えられたチャンスになかなか結果を残すことが出来ず、選手層の厚いトヨタ自動車で次第に存在感を失っていく。次第に出番は減り、ベンチを外れて、ネット裏でスコア係を務めることもあった。
「焦りはすごくありました」と言う。頭の中には、プロ野球という夢が常に燻っていた。だから「何かきっかけを掴んだら勝てるようになる」と自分に言い聞かせる。じゃあ何を追い求めたらいいのか、それが漠然としていた。
まずはチーム内の競争に勝たなくてはならない。そこで負けている自分がいた。焦るあまり、目先の結果に走ってしまった時期だった。
「自分本位で野球をしていたんでしょうね。それが一つの原因だった気がします」
竹内はそう顧みる。とはいえ、それに気付いたのは入社から数年が過ぎてから。2~3年目あたりは、毎日ただ苦しいだけ。打たれれば、「自分に力がないから」と自己否定する思考回路しかなかった。年齢的にプロの可能性が消えた頃から、だんだん客観的に自分を見られるようになり、結果に対して、いろんな方向から原因を探すようになった。
「これは野球だけではないのかもしれませんが、意識の有り様として、"利己"と"利他"というものがあって、そのどちらなのかというのが変化とか成長のキーワードになっているように思います。チームで"自分"という存在がどうあるべきか。"チーム軸"みたいな考え方がよくやく出来るようになってきたんです」
だが、失意のドラフト指名漏れ。そして、捲土重来を期して進んだ社会人野球での苦節。沈みかけた野球人生を蘇らせたのは、プロ野球から来た六大学の先輩選手との出会いだった。
第3話となる今回は、助監督就任に至る竹内の現役生活の後半生をクローズアップする。
―――◆――◆――◆―――
「どこの球団でも、何位でもいいからプロに行きたい」
2012年のドラフト当日、竹内は祈るような気持ちで指名を待っていた。しかし、同僚の福谷浩司が中日から1位指名を受けるのを横目に、無念の指名漏れに終わる。
慶大の江藤省三監督も、竹内は自身が見いだした愛弟子だけに、なんとか希望を叶えさせてあげたい気持ちはあった。とはいえ、指名があるか微妙な位置にいることもわかっていたため、「せっかく社会人の誘いもあるのだし、育成の指名ならやめたほうがいいぞ」とアドバイスをしていた。かつてプロ野球で球団編成の職に就いていたこともあり、内部事情はよく知っている。
「左腕は貴重だし、どこの球団も調査はしていたみたいだけどね。スカウトというのは、4年生の春の活躍を重視するんだよ。竹内はそこで状態が今ひとつだったから、『もう頭打ちだな』という感じで評価を落とした球団もあったらしい。
でも、それも一概には言い切れないんだ。だって、福谷も4年の春は内転筋の怪我でほとんど投げられなかったんだからさ。まあ、福谷は大学JAPANでの実績もあったから、治ったら上積みがあると思われたんだろうね」
プロを目指す竹内にとって、いささか不運な流れがあった。彼が台頭してきた当時は六大学全体に力のある左投手が少なく、希少価値という見方をされていた。しかし、下の学年から法大の石田健大(現DeNA)や明大の山崎福也(現オリックス)といったイキの良い左投手が活躍し始めたために評価のハードルが上がってしまった。
実際に指名漏れの後、江藤に「どこも獲らないのなら、ほしかったなぁ」と言ってきたスカウトがいたという。よその球団が獲るという情報があり、上位指名でなければ獲れないと判断し、その球団は指名リストから外していたようだ。
悔しさを押し殺し、竹内はプロ待ちで採用内定の出ていたトヨタ自動車に入社する。愛知県半田市出身の竹内にとっては地元でもある。しかし、定住するつもりはなかった。実績を残して2年後にプロ入りするつもりだった。
1年、2年、3年……。何も出来ないまま、時間だけがあっという間に過ぎていった。
竹内はオープン戦などで与えられたチャンスになかなか結果を残すことが出来ず、選手層の厚いトヨタ自動車で次第に存在感を失っていく。次第に出番は減り、ベンチを外れて、ネット裏でスコア係を務めることもあった。
「焦りはすごくありました」と言う。頭の中には、プロ野球という夢が常に燻っていた。だから「何かきっかけを掴んだら勝てるようになる」と自分に言い聞かせる。じゃあ何を追い求めたらいいのか、それが漠然としていた。
まずはチーム内の競争に勝たなくてはならない。そこで負けている自分がいた。焦るあまり、目先の結果に走ってしまった時期だった。
「自分本位で野球をしていたんでしょうね。それが一つの原因だった気がします」
竹内はそう顧みる。とはいえ、それに気付いたのは入社から数年が過ぎてから。2~3年目あたりは、毎日ただ苦しいだけ。打たれれば、「自分に力がないから」と自己否定する思考回路しかなかった。年齢的にプロの可能性が消えた頃から、だんだん客観的に自分を見られるようになり、結果に対して、いろんな方向から原因を探すようになった。
「これは野球だけではないのかもしれませんが、意識の有り様として、"利己"と"利他"というものがあって、そのどちらなのかというのが変化とか成長のキーワードになっているように思います。チームで"自分"という存在がどうあるべきか。"チーム軸"みたいな考え方がよくやく出来るようになってきたんです」