昨年末で慶應大学野球部を離れ、1月から所属するトヨタ自動車の社業に復帰した竹内大助。
助監督として在籍した3年6シーズンで、慶大はリーグ優勝3度、日本一2度。指導者として胸を張れるだけの好成績にも、「それは選手と監督が残した成果ですから」と、自らの実績にしようとはしない。
マニュアルもなく、手探りで始めた助監督の仕事を、彼は3年間でどんなふうに成熟させていったのか。「助監督・竹内大助の知られざる野球人生」、その最終章は、助監督の仕事の総括と、竹内のこれからにも触れていく。
―――◆―――◆―――
竹内は、今、“会社員”としての新しい生活をスタートさせている。
野球の現場は離れたが、トヨタ自動車のスポーツ全般に関わる部署に配属され、慣れないデスクワークに苦戦する日々だ。それでも、「充実しています」と言う。現役時代から、引退後はトヨタの一社員として、縁があればスポーツにも関わっていけたらいいな、という願望があった。現場ではなく、いわゆる「フロント」という立場でスポーツを見てみたかった。
トヨタ自動車は、野球以外にもバスケット、ソフトボール、ラグビーなどのチームを抱え、それぞれの競技で「強豪」と呼ばれるポジションにいる。また個人競技でも、先日の北京冬季五輪でメダルを獲得したフィギュアスケートの宇野昌磨や、フリースタイルスキー・モーグルの堀島行真らトップアスリートが数多く所属。日本の企業スポーツを牽引していると言ってもいい存在だ。それだけに、それをマネージメントするフロントの仕事は重責だが、面白さもあるはずだ。
会社を離れていた助監督在任中も、竹内には常に「トヨタ自動車」の看板を背負っているという意識があった。
野球部出身者としては、現役引退後に「出向」という形で、なおかつ教育機関で仕事をするのは、竹内が初めてのケースだった。何かしら成果を上げて、「成功した」というイメージを作りたかった。そうすれば、今後も会社がこうした形で人材を外に送り出しやすくなる。
とはいえ、今はまだ「成功」の基準がわからない。
「トヨタに帰って、助監督の3年間をどういう形で活かせばいのか。やってきたことに、汎用性があるのかないのかも今はまだわかりません。それを探さなきゃいけないというのが僕の緊喫の課題というか、テーマかもしれませんね。プログラミングが書けるようになったとか、多言語を扱う能力が出来たとか、そういう目に見えるようなスキルが上がっているわけではないですから。それでも、その状況でどうやって勝負していくのかが、今後の僕に続く人、アスリートのセカンドキャリア拡充に繋がってきます。
もし僕が野球の世界でしか生きられない人間になってしまったら、僕自身はそれでよくても、会社にとっては次の選択肢が閉ざされてしまうんです。会社に戻った僕が、どんな環境でも生きていけるようなスキルを持っていれば、こうして教育機関に出向させることを、ある程度スタンダードにしてもいいということになるでしょう。だから僕の成果報告というか身辺整理の仕方はすごく大事だと思っています」
竹内はそう言って考え込む。ビジネスマンである以上、自分の仕事の成果を内外に向けてアピールしていく必要がある。だが、やるべきことをやってきたという自負はあっても、それはパッと見て、すぐに見えてくるものではないもどかしさがある。
助監督として在籍した3年6シーズンで、慶大はリーグ優勝3度、日本一2度。指導者として胸を張れるだけの好成績にも、「それは選手と監督が残した成果ですから」と、自らの実績にしようとはしない。
マニュアルもなく、手探りで始めた助監督の仕事を、彼は3年間でどんなふうに成熟させていったのか。「助監督・竹内大助の知られざる野球人生」、その最終章は、助監督の仕事の総括と、竹内のこれからにも触れていく。
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竹内は、今、“会社員”としての新しい生活をスタートさせている。
野球の現場は離れたが、トヨタ自動車のスポーツ全般に関わる部署に配属され、慣れないデスクワークに苦戦する日々だ。それでも、「充実しています」と言う。現役時代から、引退後はトヨタの一社員として、縁があればスポーツにも関わっていけたらいいな、という願望があった。現場ではなく、いわゆる「フロント」という立場でスポーツを見てみたかった。
トヨタ自動車は、野球以外にもバスケット、ソフトボール、ラグビーなどのチームを抱え、それぞれの競技で「強豪」と呼ばれるポジションにいる。また個人競技でも、先日の北京冬季五輪でメダルを獲得したフィギュアスケートの宇野昌磨や、フリースタイルスキー・モーグルの堀島行真らトップアスリートが数多く所属。日本の企業スポーツを牽引していると言ってもいい存在だ。それだけに、それをマネージメントするフロントの仕事は重責だが、面白さもあるはずだ。
会社を離れていた助監督在任中も、竹内には常に「トヨタ自動車」の看板を背負っているという意識があった。
野球部出身者としては、現役引退後に「出向」という形で、なおかつ教育機関で仕事をするのは、竹内が初めてのケースだった。何かしら成果を上げて、「成功した」というイメージを作りたかった。そうすれば、今後も会社がこうした形で人材を外に送り出しやすくなる。
とはいえ、今はまだ「成功」の基準がわからない。
「トヨタに帰って、助監督の3年間をどういう形で活かせばいのか。やってきたことに、汎用性があるのかないのかも今はまだわかりません。それを探さなきゃいけないというのが僕の緊喫の課題というか、テーマかもしれませんね。プログラミングが書けるようになったとか、多言語を扱う能力が出来たとか、そういう目に見えるようなスキルが上がっているわけではないですから。それでも、その状況でどうやって勝負していくのかが、今後の僕に続く人、アスリートのセカンドキャリア拡充に繋がってきます。
もし僕が野球の世界でしか生きられない人間になってしまったら、僕自身はそれでよくても、会社にとっては次の選択肢が閉ざされてしまうんです。会社に戻った僕が、どんな環境でも生きていけるようなスキルを持っていれば、こうして教育機関に出向させることを、ある程度スタンダードにしてもいいということになるでしょう。だから僕の成果報告というか身辺整理の仕方はすごく大事だと思っています」
竹内はそう言って考え込む。ビジネスマンである以上、自分の仕事の成果を内外に向けてアピールしていく必要がある。だが、やるべきことをやってきたという自負はあっても、それはパッと見て、すぐに見えてくるものではないもどかしさがある。