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打率.128に終わった中村紀洋、“破格”契約も期待を裏切った井川慶…秋山翔吾以外にもいる「メジャーで挫折した男たち」<SLUGGER>

SLUGGER編集部

2022.04.09

井川(左)はヤンキース、中村(右)はドジャースと、名門のユニフォームに身を包んだが、肝心の結果はまさに散々だった。(C)Getty Images

井川(左)はヤンキース、中村(右)はドジャースと、名門のユニフォームに身を包んだが、肝心の結果はまさに散々だった。(C)Getty Images

 秋山翔吾が現地時間4月4日にシンシナティ・レッズの40人枠を外れ、同6日にリリースされた。日本屈指の安打製造機として期待されながらも、2年間で通算打率.224、本塁打なしでOPSも.594にとどまるなど、メジャーの壁に阻まれた形だ。

 これまでも日本では屈指の成績を残しながらも、メジャーでは壁に当たった選手は少なくない。ここでは、アメリカで大きな挫折を味わった6人の男たちを紹介しよう。

▼中村紀洋(2005年/ドジャース)
 当時日本球界有数のスラッガーだった中村にとって、ドジャース移籍は“2度目の”MLB挑戦だった。02年にFA権を取得した際には、なぜか本職ではなく音楽プロデューサーの茂田雅美を代理人とし、「中村紀洋というブランドを、近鉄で終わらせていいのか」との名言を残してMLB移籍を試みる。

 だが、メッツと契約寸前になって現地のニュースサイトに報道が出たのを「球団がリークした」と勘違いして怒り、契約を白紙にしてしまった。そして05年、近鉄がオリックスと合併したのを機に、ポスティングで再びアメリカを目指した。

 日本での13年間で307本塁打を放っていた中村に対してドジャースが提示したのはマイナー契約だった。開幕直後にメジャー昇格の機会を得たものの、17試合で39打数5安打、打率.128とまったく結果を残せず。5月上旬にはマイナーに降格し、その後は二度と昇格できないまま1年で日本球界に復帰。メジャーの舞台では、1本も本塁打を打つことはできなかった。
 
▼井川慶(2007~11年/ヤンキース)
 現地メディアが組んだ「ヤンキース史上最悪の契約」の特集で、ワースト1に選ばれたこともあるサウスポー。渡米前の5年間はいずれも2ケタ勝利をクリアし、うち最優秀防御率と最多勝が各1回、最多奪三振は3度。押しも押されぬ阪神のエースとして君臨していた井川は、06年12月に当時歴代2位となる約2600万ドルのポスティング料に加え、5年2000万ドルの大型契約をヤンキースと結んだ。

 だが、メジャー1年目は14試合で防御率6.25といきなり期待を裏切り、翌08年もわずか2登板。7月には40人枠からも外されてしまい、09年以降の3年間はずっとマイナーに塩漬け状態にされてしまった。球団はメジャー昇格の可能性がないことを伝えたうえで日本復帰を勧めたりもしたが井川は拒否し、最後まで3Aにとどまり続けた。

 12年にはオリックスでNPBに復帰したがすでに往年の力はなく、引退宣言こそしていないが、関西独立リーグの兵庫ブルーサンダーズ(現兵庫ブレイバーズ)でプレーした17年を最後に、事実上ユニホームを脱いだ。

▼川上憲伸(2009~10年/ブレーブス)
 代名詞のカットボールを武器に2度の最多勝に輝いた中日のエースが、メジャーの地を踏んだのは09年。3年2300万ドルの契約条件は同じ年に渡米した上原浩治よりもうえで、見事開幕ローテーション入りも果たした。メジャー初先発で初勝利を挙げ、最終的には7勝12敗と負け越したものの、防御率は3.86とまずまずだった。

 川上の転落は2年目からだった。開幕からいきなり9連敗を喫して3Aへ降格。3年目は故障もあってメジャー昇格はなく、それどころか36歳にしてほぼ2A暮らしを余儀なくされる。緊張の糸が切れてしまったのか、2Aでも16試合で防御率8.41と打ち込まれた川上は、翌12年に古巣中日への復帰を選んだ。
 
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