今季のセ・リーグで、いや日本球界において話題沸騰となっているのが、「村上宗隆(ヤクルト)の三冠王なるか?」だ。
三冠王は、打率、本塁打、打点と打撃主要三部門を手にし、技術とパワーを極めた打者だけに与えられる究極の称号だ。過去に日本球界においてこの偉業をやってのけたのは、2リーグ制以降で6人だけと多くない。それだけに22歳にして達成に迫る村上の偉才ぶりが際立つとも言える。
では、過去に球史に残る大偉業をやってのけたのは、どういう大打者たちだったのか。この機会に振り返ってみたい。
◆野村克也(南海)
65年:打率.320/42本塁打/110打点
2リーグ制初、パ初にして、守備負担の大きい捕手では“史上唯一”の三冠王だ。これによってそれまで三冠王という概念がなかった過去の記録が見直され、38年の秋季リーグで好記録を収めていた中島治康(巨人)が三冠王として認知された。そのため、「実質史上初の大偉業」とも言われている。
また、本塁打王は9回、打点王は7回獲得していながら、首位打者を取ったのはこの年だけ。ただ1回のチャンスをつかんだのもまた、史上唯一である。
この偉業達成には大きな壁が存在した。MLB通算145本塁打を放った元メジャーリーガーのダリル・スペンサー(阪急)である。8月15日の時点では野村が打率.335/27本塁打/80打点だったのに対し、スペンサーも.329/33本/62打点とハイアベレージを記録。熾烈なデッドヒートが繰り広げられたのだが、いわゆる“ガイジン”にタイトルを取らせまいとするパ・リーグ各球団の、スペンサーに対する執拗な四球責めもあり、次第に差は開いていいった。
そして10月5日、意外な形で勝負はついた。
スペンサーが通勤に使っていたバイクで事故に遭遇。右足骨折の重傷を負い、シーズン残り2週間で今季絶望となってしまったのである。当時、野村本人も意外な決着には消化不良気味だったが、なんとか三冠王の偉業を果たした。
◆王貞治(巨人)
73年:打率.355/51本塁打/114打点
74年:打率.332/49本塁打/107打点
「日本球界史上最強」の呼び声も高い大打者も、当然のように三冠王も手中に収めている。その打者としての実績は長ったらしく説明する必要はないだろうが、三冠王に輝いた両年とも、巨人打線では孤軍奮闘状態だったのは、特筆しておくべきだろう。
1965年からリーグ9連覇を果たしたV9時代の巨人で中核を担った“ON砲”も、当時はすでに片翼飛行だった。38歳となっていた「N」こと長嶋茂雄の衰えが顕著だったからだ。さらに主力もベテラン頼みになっていたチームは、両年とも3割打者は王以外にいないという状況だった。とりわけ74年には史上最多のシーズン158四球を記録した事実からも、いかに王に敵のマークが集中していたかが分かる。
それほど他球団に警戒されても、一切の衰えなく打ち続けたという事実こそが、レジェンドの凄まじさを表している。王の孤軍奮闘により、73年の巨人はついに9年連続日本一の大偉業を達成。翌74年はゲーム差なしの2位で中日に敗れたとはいえ、最後まで巨人に優勝争いをさせたのは、背番号1の存在にあって他ならない。
三冠王は、打率、本塁打、打点と打撃主要三部門を手にし、技術とパワーを極めた打者だけに与えられる究極の称号だ。過去に日本球界においてこの偉業をやってのけたのは、2リーグ制以降で6人だけと多くない。それだけに22歳にして達成に迫る村上の偉才ぶりが際立つとも言える。
では、過去に球史に残る大偉業をやってのけたのは、どういう大打者たちだったのか。この機会に振り返ってみたい。
◆野村克也(南海)
65年:打率.320/42本塁打/110打点
2リーグ制初、パ初にして、守備負担の大きい捕手では“史上唯一”の三冠王だ。これによってそれまで三冠王という概念がなかった過去の記録が見直され、38年の秋季リーグで好記録を収めていた中島治康(巨人)が三冠王として認知された。そのため、「実質史上初の大偉業」とも言われている。
また、本塁打王は9回、打点王は7回獲得していながら、首位打者を取ったのはこの年だけ。ただ1回のチャンスをつかんだのもまた、史上唯一である。
この偉業達成には大きな壁が存在した。MLB通算145本塁打を放った元メジャーリーガーのダリル・スペンサー(阪急)である。8月15日の時点では野村が打率.335/27本塁打/80打点だったのに対し、スペンサーも.329/33本/62打点とハイアベレージを記録。熾烈なデッドヒートが繰り広げられたのだが、いわゆる“ガイジン”にタイトルを取らせまいとするパ・リーグ各球団の、スペンサーに対する執拗な四球責めもあり、次第に差は開いていいった。
そして10月5日、意外な形で勝負はついた。
スペンサーが通勤に使っていたバイクで事故に遭遇。右足骨折の重傷を負い、シーズン残り2週間で今季絶望となってしまったのである。当時、野村本人も意外な決着には消化不良気味だったが、なんとか三冠王の偉業を果たした。
◆王貞治(巨人)
73年:打率.355/51本塁打/114打点
74年:打率.332/49本塁打/107打点
「日本球界史上最強」の呼び声も高い大打者も、当然のように三冠王も手中に収めている。その打者としての実績は長ったらしく説明する必要はないだろうが、三冠王に輝いた両年とも、巨人打線では孤軍奮闘状態だったのは、特筆しておくべきだろう。
1965年からリーグ9連覇を果たしたV9時代の巨人で中核を担った“ON砲”も、当時はすでに片翼飛行だった。38歳となっていた「N」こと長嶋茂雄の衰えが顕著だったからだ。さらに主力もベテラン頼みになっていたチームは、両年とも3割打者は王以外にいないという状況だった。とりわけ74年には史上最多のシーズン158四球を記録した事実からも、いかに王に敵のマークが集中していたかが分かる。
それほど他球団に警戒されても、一切の衰えなく打ち続けたという事実こそが、レジェンドの凄まじさを表している。王の孤軍奮闘により、73年の巨人はついに9年連続日本一の大偉業を達成。翌74年はゲーム差なしの2位で中日に敗れたとはいえ、最後まで巨人に優勝争いをさせたのは、背番号1の存在にあって他ならない。