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高校野球

滋賀の名将が育てた無名校、甲子園への軌跡。彦根総合快進撃の舞台裏と監督が見据える名門への道<SLUGGER>

馬場遼

2023.01.27

彦根総合を指揮する宮崎監督。北大津野球部の監督時代は6度甲子園に出場し、ダルビッシュ有(現パドレス)のいた東北高と戦った経験もある。写真:産経新聞社

彦根総合を指揮する宮崎監督。北大津野球部の監督時代は6度甲子園に出場し、ダルビッシュ有(現パドレス)のいた東北高と戦った経験もある。写真:産経新聞社

 1月27日に出場校が発表される、第95回記念選抜高等学校野球大会。この大会で、春夏通じて初の甲子園出場が有力視されているのが、滋賀県の彦根総合高だ。

 彦根総合は秋の滋賀県大会を制し、初出場の近畿大会で8強まで進出した。準々決勝では大阪桐蔭に4対9で敗れたが、一時はリードを奪うなど“平成最強校”を相手に見せ場を作った。

 滋賀県といえば、昨春の甲子園で準優勝した近江高のイメージが強い。彦根総合の名は、高校野球ファンにとっても聞き慣れないものだろう。最近まで無名だった学校が、いかにして甲子園を手繰り寄せるまでになったのか。その背景を探っていきたい。

 彦根総合は白鳩洋裁研究所を前身とする私立の元女子校で、2006年に共学化されて現在の校名になった。野球部が創部されたのは08年で、翌春から公式戦に出場している。以来、公式戦で1勝か2勝はすることがあったが、19年までは3回戦進出が最高で、決して強豪の地位を築いていたわけではなかった。

 転機は今から約3年前だ。管理職会議で野球部の強化に乗り出そうとの話が持ち上がった。そのためには優秀な指導者の招聘が必要だと考え、白羽の矢が立ったのが、宮崎裕也監督だった。

 宮崎は1979年夏に、比叡山高の選手として甲子園に出場した経験がある。その後は中京大に進んで保健体育の教員となり、無名の公立校だった北大津高を春夏合わせて6度の甲子園に導くなど、滋賀県では知られた名将である。
 
 17年には安曇川高に転勤となったが、ここでは以前からいた指導者の邪魔をするわけにはいかないと、野球部からは離れていた。つまり公立校の教員とはいえ、野球の指導者としてはフリーの立場だったのだ。そこで、彦根総合の松本隆理事長が直々に監督になってほしいと宮崎にオファーを出した。

 宮﨑はすぐには首を縦に振らなかったが、何度も自宅を訪問した松本理事長の熱意に惹かれて受諾。20年4月から彦根総合の監督に就任した。

 三顧の礼で迎えた名将に対し、松本理事長は支援を惜しまなかった。新たに寮を新設し、昨年8月には専用グラウンドが完成。野球部を強化するための土台作りを着々と行った。

 松本理事長の期待に応えるべく、「引き受けた以上は日本一を目指したい」と宮崎も精力的に動いた。赴任1年目は指揮を執らず、県内外を問わずに学校の紹介をして回り、選手勧誘に奔走する。その結果、翌春には30人近い選手が入部した。「何の実績もなく、その当時はグラウンドもない学校によく来てくれたと思います」と、宮崎は彦根総合を選んでくれた選手に感謝の気持ちを持ち続けている。

 彼らが入学すると同時に、宮崎は正式に監督に就任した。スポーツエキスパート系列の1期生として入学した現在の新3年生は1年春からレギュラーの大半を占め、下級生から実戦経験を積んだ。
 
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