その質問が出た刹那、オリックスの左腕・宮城大弥は意外そうな顔をした。
「どっちもどっちだと思います。相手も同じ条件で投げていますし、ジャッジは関係ないと思います」
昨今、試合をジャッジする審判への風当たりがきついように思う。今の時代、簡単に映像を入手して拡散することができるから、一部分だけを切り抜いて「誤審」などと揶揄する向きも多い。
SNSではファンの感情が渦巻くから、これは避けられないことだと思う。どちらか一方の立場に立てば、第三者からは公正に見えることでも不公平に見える。敗戦という結果を受け入れられず、怒りの矛先を違うところに向けてしまうのは、現代では避けられないことなのかもしれない。
ただ、それはあくまでもファン感情だ。
我々メディアは常に公正な立場で物事を見なければいけない。担当のチームや追いかけている選手がそれぞれにいたとしても、冷静な目を持っていなければいけない。それがメディアの役割だ。
もちろん、取材者にもそれぞれ思い入れがあるのは事実だ。自費で遠征に帯同してまで選手を追いかける。その選手に対する不可解なジャッジによって、勝敗が左右されてしまうようなことは、時に思いを寄せてしまう時もあるだろう。
しかし、選手が少し判定に悔しそうな顔をしたからといって、「ミスジャッジだ」「不公平だ」という論調を作り上げてしまうことは、本当に公正なのかと疑問を抱かざるを得ない。
少なくとも日本シリーズ第2戦、オリックスは宮城、阪神は西勇輝の先発で始まったこのゲームは、球審がどちらかに有利に働くようなジャッジをしているようには見えなかった。それだけに、メディア自らがさもミスジャッジがあったかのように仕向けていく質問には興醒めしたものである。
ストライクゾーンの捉え方は、それぞれあるのは確かだ。両投手がストライクだと思っていた球はあったかもしれないが、それはその日の球審が下したジャッジは一貫しているのであれば、正しいものと思えなければ前に進めない。
人間がすることに誤差は生じてしまうものだし、それを極力少なくするためにリクエスト制度やビデオ判定が導入された。導入されえt改めて感じるのは、どれほど難しいジャッジを審判がこれまで課せられてきたのかという事実である。
たとえ判定が覆ることがあっても、それほどに難しい状況だったと理解しなければならないのだ。
「どっちもどっちだと思います。相手も同じ条件で投げていますし、ジャッジは関係ないと思います」
昨今、試合をジャッジする審判への風当たりがきついように思う。今の時代、簡単に映像を入手して拡散することができるから、一部分だけを切り抜いて「誤審」などと揶揄する向きも多い。
SNSではファンの感情が渦巻くから、これは避けられないことだと思う。どちらか一方の立場に立てば、第三者からは公正に見えることでも不公平に見える。敗戦という結果を受け入れられず、怒りの矛先を違うところに向けてしまうのは、現代では避けられないことなのかもしれない。
ただ、それはあくまでもファン感情だ。
我々メディアは常に公正な立場で物事を見なければいけない。担当のチームや追いかけている選手がそれぞれにいたとしても、冷静な目を持っていなければいけない。それがメディアの役割だ。
もちろん、取材者にもそれぞれ思い入れがあるのは事実だ。自費で遠征に帯同してまで選手を追いかける。その選手に対する不可解なジャッジによって、勝敗が左右されてしまうようなことは、時に思いを寄せてしまう時もあるだろう。
しかし、選手が少し判定に悔しそうな顔をしたからといって、「ミスジャッジだ」「不公平だ」という論調を作り上げてしまうことは、本当に公正なのかと疑問を抱かざるを得ない。
少なくとも日本シリーズ第2戦、オリックスは宮城、阪神は西勇輝の先発で始まったこのゲームは、球審がどちらかに有利に働くようなジャッジをしているようには見えなかった。それだけに、メディア自らがさもミスジャッジがあったかのように仕向けていく質問には興醒めしたものである。
ストライクゾーンの捉え方は、それぞれあるのは確かだ。両投手がストライクだと思っていた球はあったかもしれないが、それはその日の球審が下したジャッジは一貫しているのであれば、正しいものと思えなければ前に進めない。
人間がすることに誤差は生じてしまうものだし、それを極力少なくするためにリクエスト制度やビデオ判定が導入された。導入されえt改めて感じるのは、どれほど難しいジャッジを審判がこれまで課せられてきたのかという事実である。
たとえ判定が覆ることがあっても、それほどに難しい状況だったと理解しなければならないのだ。