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MLB

一時はホームレスに転落…70年代最強の奪三振王JR・リチャードの波乱の生涯【豊浦彰太郎のベースボール一刀両断!】<SLUGGER>

豊浦彰太郞

2021.08.12

 メジャーでのラストイヤーとなる80年も、リチャードは例年通りの好調なスタートを切った。初選出の球宴でも先発し、2回無失点の好投。この頃には腕や指先の痺れを訴えるようになっていたが球団側は真剣に取り合わず、メディアも不平不満の表明と解釈した。オフに4年450万ドルで迎え入れられたライアンを、19万5000ドルのサラリーしか得ていなかったリチャードが妬んでいると思われていたのだ。

 しかし、球宴後にはボールを握ることすら困難になり、ようやく病院で検査を受けたところ、右鎖骨下の動脈がほぼ塞がっている状態なのが見つかった。だが、医師は手術までは必要ないと判断。その5日後、リチャードは試合前の練習中に昏倒した。

 リチャードの球歴が突如絶たれたことは、MLBの歴史に2つの“if”を投げかけている。
 
 現在はアストロズのGM特別補佐で、リチャードの現役当時はレギュラー三塁手だったイーノス・キャベルは「もしJRが倒れていなかったら、80年にアストロズはワールドシリーズを制しただろう」と語っている。事実、ライアンを加えたこの年のアストロズは、球団史上初の地区優勝(当時のアストロズはナ・リーグ西地区に所属していた)を果たした。リーグ優勝決定シリーズではフィリーズに2勝3敗で敗れたが、これも5試合中4試合が延長という互角の熱戦だった。

 また、リチャードの獲得に関与したタル・スミス元球団社長は、「(リチャードがもし)球歴をまっとうしたなら殿堂入りしたはず」と惜しむ。リチャードの通算成績は107勝71敗、防御率3.15。80年に倒れた時点ではまだ30歳で、そのシーズンも17度の先発で10勝4敗、防御率は1.90だった。

 不幸な出来事がなかったとしても、これらの“if”が現実のものとなったかどうかは分からない。しかし、このことだけは間違いない。MVPを2度獲得した強打者のデール・マーフィーはこう言っている。「あの時代にプレーした選手なら、誰もがリチャードをもっとも対戦したくない投手に挙げるだろうね」。

文●豊浦彰太郎

【著者プロフィール】
北米61球場を訪れ、北京、台湾、シドニー、メキシコ、ロンドンでもメジャーを観戦。ただし、会社勤めの悲しさで球宴とポストシーズンは未経験。好きな街はデトロイト、球場はドジャー・スタジアム、選手はレジー・ジャクソン。
 

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