昭和から平成初期であれば、こうした“鉄人”も珍しくはなかった。しかし、最近はあまり見掛けなくなっている。というよりも、否定されてしまう。
肩や肘は消耗品という考え方が一般化。高校野球でも、故障防止の観点から、投手に負担を掛けすぎないよう、様々な施策を講じている。そのため福山も春のリーグ戦中、またリーグ終了後に、SNSなどで、「登板過多」「酷使」と、監督の采配やリーグ戦の在り方までが批判を浴びた。
だが、福山はそうした外野の声に対して、きっぱりとこう反論する。
「そういう言われ方をするのは、すごく嫌なんです。“酷使”というのは、例えば僕が肩や肘が痛くて投げられない状態なのに、それでも投げさせられるというのであれば、そうかもしれません。でも、今は毎試合、監督やトレーナーと話をして、『行ける』という確認をして、ちゃんと準備を踏まえてマウンドに上がっています。それは、酷使でも何でもない。
何より、僕自身が投げたいんです。監督ともよくそんな話をするのですが、打者に投げることでわかるものがある。リーグ戦ではまず勝つことが大事ですが、投げれば、自分の成長に繋がる。打者との駆け引きとか、同じ打者でも毎試合感じることが違いますから、常に発見がある。そういう感覚を磨くのは、投げなくては出来ないことなんです。だから、他の投手よりもイニングを投げているということは、それだけたくさん勉強出来ている、と考えています」
とはいえ現実問題として、疲れはなかったのだろうか?
「もちろん、投げたら疲れますよ。“鉄人”じゃないですから(笑)。でも年々、登板後の疲労感が小さくなっています。面白いもので、自分が完投してチームが勝って、次の日の朝、空が晴れていて良い天気だったりすると、あんまり疲れを感じないんです。逆にチームが勝てない時には、球数が少なくても身体が重く感じる。そういう精神的なところの影響が大きい気がします」
見方を変えると、この“投げない価値観”の時代に、なおかつ、コロナ禍で練習に様々な制約が掛かるなかで、福山という投手はなぜこれだけ投げられるのだろうか? むしろ、そちらを知りたくなってくる。
「“時代”という言葉で片付けてしまえば簡単な話ですけど、練習でしっかり基礎体力をつけて、ちゃんとした身体の動き、使い方を覚えて、きちんとケアをしていれば、そこまで問題はないと僕は思っています」
鉄人はそう言った。
肩や肘は消耗品という考え方が一般化。高校野球でも、故障防止の観点から、投手に負担を掛けすぎないよう、様々な施策を講じている。そのため福山も春のリーグ戦中、またリーグ終了後に、SNSなどで、「登板過多」「酷使」と、監督の采配やリーグ戦の在り方までが批判を浴びた。
だが、福山はそうした外野の声に対して、きっぱりとこう反論する。
「そういう言われ方をするのは、すごく嫌なんです。“酷使”というのは、例えば僕が肩や肘が痛くて投げられない状態なのに、それでも投げさせられるというのであれば、そうかもしれません。でも、今は毎試合、監督やトレーナーと話をして、『行ける』という確認をして、ちゃんと準備を踏まえてマウンドに上がっています。それは、酷使でも何でもない。
何より、僕自身が投げたいんです。監督ともよくそんな話をするのですが、打者に投げることでわかるものがある。リーグ戦ではまず勝つことが大事ですが、投げれば、自分の成長に繋がる。打者との駆け引きとか、同じ打者でも毎試合感じることが違いますから、常に発見がある。そういう感覚を磨くのは、投げなくては出来ないことなんです。だから、他の投手よりもイニングを投げているということは、それだけたくさん勉強出来ている、と考えています」
とはいえ現実問題として、疲れはなかったのだろうか?
「もちろん、投げたら疲れますよ。“鉄人”じゃないですから(笑)。でも年々、登板後の疲労感が小さくなっています。面白いもので、自分が完投してチームが勝って、次の日の朝、空が晴れていて良い天気だったりすると、あんまり疲れを感じないんです。逆にチームが勝てない時には、球数が少なくても身体が重く感じる。そういう精神的なところの影響が大きい気がします」
見方を変えると、この“投げない価値観”の時代に、なおかつ、コロナ禍で練習に様々な制約が掛かるなかで、福山という投手はなぜこれだけ投げられるのだろうか? むしろ、そちらを知りたくなってくる。
「“時代”という言葉で片付けてしまえば簡単な話ですけど、練習でしっかり基礎体力をつけて、ちゃんとした身体の動き、使い方を覚えて、きちんとケアをしていれば、そこまで問題はないと僕は思っています」
鉄人はそう言った。