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プロ野球

ドラフト戦線に突然現れた“無名の155キロ右腕”、柴田大地が辿った波瀾万丈すぎる球歴【前編】

矢崎良一

2021.10.07

高校時代は無名だった柴田は、いったいどのようにして己を磨いてきたのか。写真:徳原隆元

高校時代は無名だった柴田は、いったいどのようにして己を磨いてきたのか。写真:徳原隆元

 たびたび見舞われる肘と腰の痛み。

「頑張るヤツだから、頑張りすぎて怪我をしてしまうんです」

 本橋は言う。もともと弱いところに、限界を超えてやってしまう。要領の良い選手であれば、適度にサボっていただろう。だが、野球も性格も不器用な柴田にはそれが出来なかった。その結果、故障を繰り返す。

 野球選手にとって、ボールを持たない練習というのは決して楽しい時間ではない。ましてケガが続けば目標も作りにくくなる。

 現在、神奈川県の立花学園で監督を務める志賀正啓は、当時、日体荏原に在職し、野球部の助監督を務めていた。

 志賀は、柴田を「ほっておけない子」と表現する。

 リハビリが長引く柴田に、「毎日、グラウンドにも出られず、野球が出来なくても、心や頭は鍛えられるんだよ」と言って読書を勧め、実際に何冊か自分の持っていた本を貸した。理科教諭の志賀は、柴田のクラスの授業も受け持っていた。正直言って、勉強は得意ではなかった。ただ、「これを読んでみろ」と言って渡した本は、いつも熱心に読んでいた。そこに書かれている人物や内容に影響を受け、心を動かしているとがわかる。そういう素直さに触れると、あれこれ面倒を見たくなるのだ。

 中学生のスカウティングも担当していた志賀は、地元の硬式チームの試合や練習場によく足を運んでいた。柴田は彼が直接声を掛けて誘った選手だった。

 大田区にある羽田アンビシャスに所属していた柴田。そこまで名前の売れた存在ではなかったが、マウンドに上がるとイキの良いボールを投げている。その年は、大田シャークボーイズ(現・大田水門ボーイズ)の鈴木健介を筆頭に、何人か力のある投手の入学が決まっていた。だから、「コイツをエースに育てるんだ! というよりも、みんなで競い合っていけば層の厚い投手陣になるのでは、と期待していました」と志賀は言う。
 
 本橋、志賀がともに指摘するのは、柴田の身体能力の高さ。とくに地肩の強さと身体の柔らかさは、部員数100人を超えるチームのなかでも群を抜いていた。

 それゆえ、身体が万全の時には惚れ惚れするようなキレのあるボールを投げる。だが、勢いだけで投げているから、ちょっとでもバランスを崩すと、なまじボールの力があるだけに、身体のどこかに必要以上の負荷が掛かる。それが度重なる故障の原因となっていた。

 1年生の夏を終えた新チームで、鈴木が上級生たちを押しのけてエースナンバー(1番)を背負う。鈴木は柴田と背丈はさほど変わらないが、入学当時から身体がある程度出来上がっていて馬力もあった。

 一方、柴田は背番号11番の控え投手。一学年上には、アレックス・ラミレス(前・横浜DeNAベイスターズ監督)の甥であるラミレス・ヨンデル(現・群馬ダイヤモンド・ペガサス)がいて、背番号20番の控え投手だった。

 その秋の東京都大会で日体荏原はベスト8まで勝ち進み、準々決勝で二松学舎大付に0-1で惜敗している。東京を代表する強豪相手に接戦を演じたことで、この試合で好投した一学年上の古川旺司、鈴木、柴田らを、高校野球専門誌が「荏原の強力投手陣」と取り上げたこともあった。
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