慶大はこの年(2010年)から、プロ野球出身で、巨人やロッテ、DeNAなどでコーチを務めたキャリアを持つ江藤省三が監督に就任していた。そして、この年のチームは、前年まで主戦として投げていたのが中林伸陽(JFE東日本)、小室潤平(三菱重工名古屋)らほとんど4年生だったため、彼らが卒業し、残った投手陣は全員が神宮未勝利という、まさに“0からのスタート”状態だった。
そこで江藤監督が目を付けたのが、竹内と福谷浩司(現中日)という、2人の2年生投手だった。指揮官は竹内を初戦、福谷を2戦目の先発に起用し、このシーズン、チームの全勝ち星となる8勝を2人で挙げている。
「竹内を使った理由? 中京(中京大中京)なら根性もあるだろうと思ってね。なんてったって、私の後輩なんですから」
そう言ってケラケラと笑う江藤は、他ならぬ、「中京商業」の校名だった時代の中京大中京出身。竹内の大先輩にあたる。もちろんジョークだが、後輩に期待し、目を掛けたというのは本心だろう。ノーヒットノーランのウイニングボールは、江藤の監督としての初勝利のウイニングボールでもあった。試合後、記念のボールをプレゼントされた江藤は嬉し涙を流している。
そういう期待は、本人にも伝わる。竹内自身、「もう、チャンスはここしかない! というくらいの気持ちがありました」と言う。
ストレートの球速は140キロ前後ながら、カーブ、スライダー、チェンジアップと変化球が多彩で、なおかつ打者の狙いを逆手に取る巧みな投球術が持ち味だった。左腕からの力感のないフォーム。そのシルエットは、大学通算31勝を挙げ、卒業時に巨人から熱心な誘いを受けたがプロ入りを拒否し一般企業に就職したという逸話を持つ慶大のかつてのエース、志村亮とイメージを重ねる年配ファンも多かった。
竹内は、「コントロールが良いというイメージを逆手にとっていました」と言う。
「じつはコントロールにまったく自信がなくて。じゃあ何で抑えていたかといえば、緩急に尽きると思います。相手がされて嫌なことをし続けました。ストレートを待っている打者に変化球を投げ、変化球を待っている打者にはストレートを投げ」
それはどこで身に付けたものだったのか?
「もちろん、いろんな指導者の方や先輩方から教えていただいたことですけど。自分は150キロを投げられるピッチャーではないので、その遅いボールで勝つためにはどうすればいいんだろう? ということを、大学に入ってからずっと考えていました。
もともとバッターからの目線とか、バッターの心理状態を考えたりすることが好きだったんです。普段から、こういうことをしたら打者は嫌だろうなとか、あれこれ考えて、仮説を立てて、それをグラウンドで検証しているような感じでしたね」
武器があった。それは自分でも投げてみないとわからない独特の変化をするチェンジアップだ。
「デットボールを怖がって、そのボール(チェンジアップ)を選択肢から消したら、自分は生き残れないんで」と言う。左打者に対しても「当ててしまったら仕方ない」という強い気持ちで膝元めがけて投げ込んだ。
「自分自身では135キロだろうが、137キロだろうが、“俺は本格派だ”と思って練習していましたけどね」
竹内は少し恥ずかしそうに笑う。同じ左腕の今中慎二(元中日)や杉内俊哉(現巨人二軍投手コーチ)のように、力感のないフォームでピュッと伸びてきてバットに差し込むストレートが投げたかった。それを意識する打者に嘲笑うようなチェンジアップ。よく映像を見ては、「これだよなぁ」と独りごちていた。
そこで江藤監督が目を付けたのが、竹内と福谷浩司(現中日)という、2人の2年生投手だった。指揮官は竹内を初戦、福谷を2戦目の先発に起用し、このシーズン、チームの全勝ち星となる8勝を2人で挙げている。
「竹内を使った理由? 中京(中京大中京)なら根性もあるだろうと思ってね。なんてったって、私の後輩なんですから」
そう言ってケラケラと笑う江藤は、他ならぬ、「中京商業」の校名だった時代の中京大中京出身。竹内の大先輩にあたる。もちろんジョークだが、後輩に期待し、目を掛けたというのは本心だろう。ノーヒットノーランのウイニングボールは、江藤の監督としての初勝利のウイニングボールでもあった。試合後、記念のボールをプレゼントされた江藤は嬉し涙を流している。
そういう期待は、本人にも伝わる。竹内自身、「もう、チャンスはここしかない! というくらいの気持ちがありました」と言う。
ストレートの球速は140キロ前後ながら、カーブ、スライダー、チェンジアップと変化球が多彩で、なおかつ打者の狙いを逆手に取る巧みな投球術が持ち味だった。左腕からの力感のないフォーム。そのシルエットは、大学通算31勝を挙げ、卒業時に巨人から熱心な誘いを受けたがプロ入りを拒否し一般企業に就職したという逸話を持つ慶大のかつてのエース、志村亮とイメージを重ねる年配ファンも多かった。
竹内は、「コントロールが良いというイメージを逆手にとっていました」と言う。
「じつはコントロールにまったく自信がなくて。じゃあ何で抑えていたかといえば、緩急に尽きると思います。相手がされて嫌なことをし続けました。ストレートを待っている打者に変化球を投げ、変化球を待っている打者にはストレートを投げ」
それはどこで身に付けたものだったのか?
「もちろん、いろんな指導者の方や先輩方から教えていただいたことですけど。自分は150キロを投げられるピッチャーではないので、その遅いボールで勝つためにはどうすればいいんだろう? ということを、大学に入ってからずっと考えていました。
もともとバッターからの目線とか、バッターの心理状態を考えたりすることが好きだったんです。普段から、こういうことをしたら打者は嫌だろうなとか、あれこれ考えて、仮説を立てて、それをグラウンドで検証しているような感じでしたね」
武器があった。それは自分でも投げてみないとわからない独特の変化をするチェンジアップだ。
「デットボールを怖がって、そのボール(チェンジアップ)を選択肢から消したら、自分は生き残れないんで」と言う。左打者に対しても「当ててしまったら仕方ない」という強い気持ちで膝元めがけて投げ込んだ。
「自分自身では135キロだろうが、137キロだろうが、“俺は本格派だ”と思って練習していましたけどね」
竹内は少し恥ずかしそうに笑う。同じ左腕の今中慎二(元中日)や杉内俊哉(現巨人二軍投手コーチ)のように、力感のないフォームでピュッと伸びてきてバットに差し込むストレートが投げたかった。それを意識する打者に嘲笑うようなチェンジアップ。よく映像を見ては、「これだよなぁ」と独りごちていた。