大学時代、マウンド上の竹内は、常に冷静で淡々と投げていた印象がある。
だが、痛打を浴び、手痛い失点をした時には、ベンチに戻ってくるまでは表情を変えずにいるが、観客から見えないベンチの奥に行くと、グラブをたたきつけ、きれいに揃えて並べられた他の選手のスパイクを蹴散らした。竹内が静まると、上級生がやってきてスパイクを揃え直していたという。
監督や先輩に反抗をしていたわけではない。自分のなかで、どうにもならない感情を抑えることが出来なかったのだ。その感情の正体がわかった時がある。
大学2年の6月、春のシーズンの活躍を評価され、大学日本代表の強化合宿に招集された。投手では菅野、野村、東洋大の藤岡貴裕(元巨人)、亜大の東浜巨(現ソフトバンク)、九州共立大の大瀬良大地(現広島)と錚々たる顔ぶれが揃っていた。
合宿が終わった日、当時から付き合っていた妻のまりえの携帯に突然、着信が入った。
「今から行っていい?」
合宿から帰京したばかりの竹内からだった。後にも先にも、そんなことを言ってきたことは一度もなかった。当然、心配になる。まりえが「何かあったのかな?」とヤキモキしながら待っていると、やって来た竹内は、目を輝かせながらこう言った。
「俺、野球が好きだ」
日頃、そういう言葉をあまり口に出すタイプではなかった。驚いたが、竹内の野球への強い情熱はもともと理解していた。「本当に真剣に野球に取り組んでいましたから」とまりえは言う。
シーズンオフに二人で旅行に行く計画を立てたことがある。出発の日、昼過ぎの出発時間に合わせ、竹内は午前中いっぱい自主練習を済ませてから待ち合わせ場所にやってきた。翌日、昼に帰ってくると、午後にはその足でまた練習に向かった。
やるだけのことはやっているという自負。だが、心のどこかに閉塞感を抱いていた。「俺、このままでいいのかな?」と思いながらも、どうすればいいのかがわからなかった。そんな時に、大学野球のトップレベルの投手たちと一緒に練習し、同じ時間を過ごしたことで、強い刺激を受けた。彼らはみな野球に対して貪欲で、その感情を隠すことなく表に出していた。
「僕も、“俺がエースだ”という意識はすごく持っていたんです。ただ、その表現の仕方が間違っていたのかもしれません。周りを巻き込んで全員を引っ張るというよりは、自分が孤高であっても成果を残し続けたらいいだろうという感覚だったんです。
高校、大学と、僕はどちらかというと下級生の時に活躍させてもらっています。上級生が一緒にいてくれる時のほうが、力を発揮出来るタイプなのかなと思う部分があります。下級生の時って、ある程度ワガママが許されるじゃないですか。
自分がやりたいようにやって、それで上手くいかなくても先輩がカバーしてくれる。でも本来は、チーム観を持つというか、チームが勝つためにどう振る舞うのかというところが大事だったと思うんです。もちろん、そういう気持ちがなかったわけじゃないですよ。だけど、自分のやり方はちょっと間違っていたのかなと、考えるところはありました」
そんな竹内の内面の葛藤を、じつはチームメイトも理解していた。当時のチームにトレーナーとして帯同していた高村克己は言う。
「4年生になってから、意識して自分を変えようとしているんだな、という思いは伝わってきました」
いつも物静かだったのが、よく周囲と会話を交わすようになった。ランニングでも先頭に立ち誰よりも声を出して引っ張っている。下級生にアドバイスすることも増えた。
「ボールの力とか、投手としてのポテンシャルでは福谷なんだけど、“このチームのエースは大助だ”という気持ちは、みんなが持っていたと思います」と高村。
4年生のシーズンは、春が4勝3敗。秋が1勝3敗。2年春から休むことなく投げ続けた竹内は、4年間で通算56試合に登板。22勝15敗の成績を残している。
そして、春先からプロ希望を明言していた。
――第3章へ続く――
取材・文●矢崎良一
だが、痛打を浴び、手痛い失点をした時には、ベンチに戻ってくるまでは表情を変えずにいるが、観客から見えないベンチの奥に行くと、グラブをたたきつけ、きれいに揃えて並べられた他の選手のスパイクを蹴散らした。竹内が静まると、上級生がやってきてスパイクを揃え直していたという。
監督や先輩に反抗をしていたわけではない。自分のなかで、どうにもならない感情を抑えることが出来なかったのだ。その感情の正体がわかった時がある。
大学2年の6月、春のシーズンの活躍を評価され、大学日本代表の強化合宿に招集された。投手では菅野、野村、東洋大の藤岡貴裕(元巨人)、亜大の東浜巨(現ソフトバンク)、九州共立大の大瀬良大地(現広島)と錚々たる顔ぶれが揃っていた。
合宿が終わった日、当時から付き合っていた妻のまりえの携帯に突然、着信が入った。
「今から行っていい?」
合宿から帰京したばかりの竹内からだった。後にも先にも、そんなことを言ってきたことは一度もなかった。当然、心配になる。まりえが「何かあったのかな?」とヤキモキしながら待っていると、やって来た竹内は、目を輝かせながらこう言った。
「俺、野球が好きだ」
日頃、そういう言葉をあまり口に出すタイプではなかった。驚いたが、竹内の野球への強い情熱はもともと理解していた。「本当に真剣に野球に取り組んでいましたから」とまりえは言う。
シーズンオフに二人で旅行に行く計画を立てたことがある。出発の日、昼過ぎの出発時間に合わせ、竹内は午前中いっぱい自主練習を済ませてから待ち合わせ場所にやってきた。翌日、昼に帰ってくると、午後にはその足でまた練習に向かった。
やるだけのことはやっているという自負。だが、心のどこかに閉塞感を抱いていた。「俺、このままでいいのかな?」と思いながらも、どうすればいいのかがわからなかった。そんな時に、大学野球のトップレベルの投手たちと一緒に練習し、同じ時間を過ごしたことで、強い刺激を受けた。彼らはみな野球に対して貪欲で、その感情を隠すことなく表に出していた。
「僕も、“俺がエースだ”という意識はすごく持っていたんです。ただ、その表現の仕方が間違っていたのかもしれません。周りを巻き込んで全員を引っ張るというよりは、自分が孤高であっても成果を残し続けたらいいだろうという感覚だったんです。
高校、大学と、僕はどちらかというと下級生の時に活躍させてもらっています。上級生が一緒にいてくれる時のほうが、力を発揮出来るタイプなのかなと思う部分があります。下級生の時って、ある程度ワガママが許されるじゃないですか。
自分がやりたいようにやって、それで上手くいかなくても先輩がカバーしてくれる。でも本来は、チーム観を持つというか、チームが勝つためにどう振る舞うのかというところが大事だったと思うんです。もちろん、そういう気持ちがなかったわけじゃないですよ。だけど、自分のやり方はちょっと間違っていたのかなと、考えるところはありました」
そんな竹内の内面の葛藤を、じつはチームメイトも理解していた。当時のチームにトレーナーとして帯同していた高村克己は言う。
「4年生になってから、意識して自分を変えようとしているんだな、という思いは伝わってきました」
いつも物静かだったのが、よく周囲と会話を交わすようになった。ランニングでも先頭に立ち誰よりも声を出して引っ張っている。下級生にアドバイスすることも増えた。
「ボールの力とか、投手としてのポテンシャルでは福谷なんだけど、“このチームのエースは大助だ”という気持ちは、みんなが持っていたと思います」と高村。
4年生のシーズンは、春が4勝3敗。秋が1勝3敗。2年春から休むことなく投げ続けた竹内は、4年間で通算56試合に登板。22勝15敗の成績を残している。
そして、春先からプロ希望を明言していた。
――第3章へ続く――
取材・文●矢崎良一