秋には、また違った形で注目を集めることになった。
早大があと1勝で優勝という「マジック1」の状況で迎えた早慶戦。初戦、早大の先発は、大学最終シーズンを迎えた“ハンカチ王子”斎藤佑樹。4年間、神宮を沸かせてきた人気者が最後に優勝投手となる大団円を、ファンもマスコミも待ち望んでいた。
そこに立ちはだかったのが、竹内だった。
慶大にも逆転優勝の可能性がわずかに残っていた。早慶戦で連勝し、優勝決定戦も勝つ。つまり3連勝が条件。
「ここで空気読まずに勝ったら名前売れるだろうな、とは思ってましたよ。お膳立てするつもりなんてサラサラない。3つ勝つつもりでやってました」
先発した竹内は7回まで早大打線を無失点に抑え込み、8回からリリーフした福谷との完封リレーで2-0。見事、斎藤に投げ勝つ。続く第2戦は福谷が完投して7-1で勝利。両校8勝4敗で並び、竹内の目論見通り優勝決定戦にもつれ込んだ。逆王手を掛けられた早大は、どれほど冷や汗をかいたことだろう。
優勝決定戦でふたたび斎藤と投げ合った竹内。しかし、初回から3失点を喫して3回で降板。試合は5-10で敗れて、早大が歓喜のリーグ優勝を飾った。ちなみに早大は続く明治神宮大会も制して日本一。斎藤は、大学野球の有終の美を飾ることになった。
「結局、お膳立てする立場になってしまいましたね」と苦笑いを浮かべる竹内。
この年、東海大のエースだった菅野智之(現・巨人)とも投げ合っている。「完膚なきまでに叩きのめされました」と振り返る。
春の大学選手権準決勝。スコアは0-5の完敗。7回途中、3失点で降板した竹内に対して、菅野は慶大打線から17奪三振の完封。球場のスピードガンは155キロを計測する。
「菅野さんの投げているボールを見て、これはもうレベルが違う、と。対戦したなかでは、菅野さんと、明大の野村祐輔(現・広島)さんは、“凄い”と圧倒される投手でした」
そうした相手校のエースたちと投げ合うのが、1戦目を任された竹内の役割であり、それだけに、シーズン5勝6勝と大勝ちすることもあれば、勝ち星がなかなか伸びないシーズンもあった。
「毎シーズン、投げていくなかで、成績の良し悪しが出るじゃないですか。でも、何があってもまずあそこ(神宮球場のマウンド)に立ち続けることが自分の責任だと思っていました。そのためには練習もしなければいけない、研究もしなくてはいけない、と」
こうした華やかな球歴を、竹内は助監督在任中、学生たちに一度も話さなかった。口にするのは、もっぱら打たれた試合や失敗した経験ばかり。あるとき、グラウンドを訪れた江藤が、「お前ら、知ってるのか? この人はノーヒットノーランでデビューしたんだぞ」とポロッと言うと、学生たちは「マジ? 凄え」と驚いていたという。
自制して言わなかったわけではない。竹内のなかでは「華やか」ではなく、「苦悩」の記憶が多い4年間だったからだ。
早大があと1勝で優勝という「マジック1」の状況で迎えた早慶戦。初戦、早大の先発は、大学最終シーズンを迎えた“ハンカチ王子”斎藤佑樹。4年間、神宮を沸かせてきた人気者が最後に優勝投手となる大団円を、ファンもマスコミも待ち望んでいた。
そこに立ちはだかったのが、竹内だった。
慶大にも逆転優勝の可能性がわずかに残っていた。早慶戦で連勝し、優勝決定戦も勝つ。つまり3連勝が条件。
「ここで空気読まずに勝ったら名前売れるだろうな、とは思ってましたよ。お膳立てするつもりなんてサラサラない。3つ勝つつもりでやってました」
先発した竹内は7回まで早大打線を無失点に抑え込み、8回からリリーフした福谷との完封リレーで2-0。見事、斎藤に投げ勝つ。続く第2戦は福谷が完投して7-1で勝利。両校8勝4敗で並び、竹内の目論見通り優勝決定戦にもつれ込んだ。逆王手を掛けられた早大は、どれほど冷や汗をかいたことだろう。
優勝決定戦でふたたび斎藤と投げ合った竹内。しかし、初回から3失点を喫して3回で降板。試合は5-10で敗れて、早大が歓喜のリーグ優勝を飾った。ちなみに早大は続く明治神宮大会も制して日本一。斎藤は、大学野球の有終の美を飾ることになった。
「結局、お膳立てする立場になってしまいましたね」と苦笑いを浮かべる竹内。
この年、東海大のエースだった菅野智之(現・巨人)とも投げ合っている。「完膚なきまでに叩きのめされました」と振り返る。
春の大学選手権準決勝。スコアは0-5の完敗。7回途中、3失点で降板した竹内に対して、菅野は慶大打線から17奪三振の完封。球場のスピードガンは155キロを計測する。
「菅野さんの投げているボールを見て、これはもうレベルが違う、と。対戦したなかでは、菅野さんと、明大の野村祐輔(現・広島)さんは、“凄い”と圧倒される投手でした」
そうした相手校のエースたちと投げ合うのが、1戦目を任された竹内の役割であり、それだけに、シーズン5勝6勝と大勝ちすることもあれば、勝ち星がなかなか伸びないシーズンもあった。
「毎シーズン、投げていくなかで、成績の良し悪しが出るじゃないですか。でも、何があってもまずあそこ(神宮球場のマウンド)に立ち続けることが自分の責任だと思っていました。そのためには練習もしなければいけない、研究もしなくてはいけない、と」
こうした華やかな球歴を、竹内は助監督在任中、学生たちに一度も話さなかった。口にするのは、もっぱら打たれた試合や失敗した経験ばかり。あるとき、グラウンドを訪れた江藤が、「お前ら、知ってるのか? この人はノーヒットノーランでデビューしたんだぞ」とポロッと言うと、学生たちは「マジ? 凄え」と驚いていたという。
自制して言わなかったわけではない。竹内のなかでは「華やか」ではなく、「苦悩」の記憶が多い4年間だったからだ。