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プロ野球

最初の成功例は“マサカリ兆治”。そしてマウンドに感謝を捧げた桑田――トミー・ジョン手術で再起した不屈の名投手5選<SLUGGER>

筒居一孝(SLUGGER編集部)

2022.06.17

▼桑田真澄(1995年に手術/元巨人ほか)

 PL学園時代に清原和博とともに“KKコンビ”として2度の全国制覇を果たし、プロでは巨人のエースとして長く活躍……などとつらつら書いたところであまり意味はない。現在巨人の投手コーチを務める桑田の実績は、多くのファンが知るところだろう。ここでは、彼のトミー・ジョン手術と、それにまつわるドラマについて焦点を当てたい。

 桑田が右ヒジ靭帯断裂の大怪我を負ったのは、95年5月24日の阪神戦でのことだ。3回に小フライをダイビングキャッチした際に右ヒジを強打。この時は6回まで続投したが、後日の精密検査で故障が判明した。この時、巨人軍のエースが頼ったのも、やはりジョーブ博士だった。

 手術は問題なく成功したが、そこから長いリハビリが始まった。95年の残りシーズンと、96年は全休を余儀なくされた桑田は投球できない期間が長く続いたなか、二軍の本拠地であるジャイアンツ球場の外野をひたすら走り込んだ。彼は繰り返し走ったために芝生が禿げ上がったその場所は、“桑田ロード”と呼ばれるようになった。

 そして97年4月6日のヤクルト戦で念願の時が訪れる。実に661日ぶりに一軍のマウンドへ戻ってきた桑田は、プレートに右ヒジをつけてひざまずき、野球の神様への感謝を捧げた。盟友・清原のホームランもあって、この日の桑田は6回2安打1失点の堂々たるピッチングで白星をつかんだ。

 この年はいきなり2ケタ勝利、翌年には最高勝率のタイトルを獲得するなど、桑田は故障の影響を感じさせることなくその後も長く活躍を続けた。この復活劇は、桑田の欠くべからざる伝説の1ページとして今も語り継がれている。
 
▼荒木大輔(1988、89年手術/元ヤクルトほか)

 斎藤佑樹以前の高校野球最大のアイドルと言えば、同じ早稲田実業の先輩でもあるこの荒木だった。80年夏の甲子園では、1年生ながらエースを務め、チームを準優勝に導く快投で“大ちゃんフィーバー”を巻き起こした。その後も4季連続で甲子園に出場し、そのたびに甲子園を沸かせたが、それとともに荒木のヒジには確実に疲労が蓄積していたに違いない。

 82年のドラフト1位で入団したヤクルトでも1年目から一軍で投げ続け、ついに崩壊の日は来た。プロ6年目の88年にヒジ痛を発症。8月にトミー・ジョン手術に踏み切ると、その後も89年までに3度もヒジにメスを入れた。一軍の舞台に戻るのは3年後、92年まで待たねばならなかった。

 この年、荒木はレギュラシーズンたった4登板しかできなかったが、それでもチームの14年ぶりのリーグ優勝に貢献。6月に1439日ぶりの一軍登板を含めて、リリーフで2度登板。先発に復帰したのは優勝争いが激化した10月だった。

 3日の中日戦、シーズン残り6試合、首位・阪神まで1.5ゲーム差という状況でマウンドに上がると、7回2安打無失点で4年ぶりの勝ち星。さらに、勝てば優勝決定となる10日の阪神戦でも先発し、ここでも5回1失点の好投でチームにペナントをもたらした。

 翌93年も先発の一角として日本一に貢献。96年には横浜(現DeNA)で引退するまで、トミー・ジョン手術後に挙げた勝ち星はわずかに11勝。村田や桑田に比べると物足りないように映るが、奇跡の復活を果たした92年の一瞬の輝きだけでも、成功例に数えてもいいはずだ。
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