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「アメリカのスポーツ史を変えた男」マービン・ミラーが殿堂入り。“鉄の信念”を持つ男の功績と半生を振り返る

出野哲也

2019.12.09

選手会事務局長ミラー(左から2人目)と法廷に入るフラッド。裁判には敗れたものの、FA制度導入への道筋を作った。

選手会事務局長ミラー(左から2人目)と法廷に入るフラッド。裁判には敗れたものの、FA制度導入への道筋を作った。

 鉄鋼労連の委員長補佐として地位を築いたミラーが選手会と関わりを持つようになったのは、彼自身が大の野球好きというのが理由だった。ブルックリン生まれで、特定の年のドジャースの先発オーダーを暗唱できるほどだった。当時の選手会長ロビン・ロバーツに事務局長就任の話を持ちかけられると、ハーバード大学とカーネギー国際平和財団からのオファーを蹴り、何の財政的な基盤も持たず、職員の数も足りていない選手会へ単身乗り込んだ。

 就任後、ミラーは強烈なリーダーシップを発揮して選手たちの意識を変えていった。「自分たちのリーダーが相手側のために仕事をしているようでは話にならない」と、経営側と対決する姿勢を打ち出し、選手会には何もできないと高をくくっていたオーナーたちの陣地を徐々に突き崩した。

 68年にはスポーツ界で初の労使協定を締結。70年は集団での契約更改保留を主導して選手会の団結力の強さをアピールした。肖像権契約を見直すことで選手会独自の収入の道を開き、72年には年金の増額を巡る対立から、初めてストライキに突入。開幕は13日遅れて、86試合が中止になった。FAの補償を巡る争いから決行された81年のストライキは50日間にも及び、この年は1900年以降では初めて前・後期の2シーズン制で行われた。
 
 ミラーの最大の成果は73年の年俸調停制度、そして76年に実現したフリー・エージェント制導入だった。それまでは条件面で合意に達しない場合、選手はサインを拒否したまま保留するしか手がなかったのが、調停制度によって第三者の見解を取り入れられるようになった。

 そして75年、アンディ・メッサースミスとデーブ・マクナリーの2人が契約書にサインしないままシーズンを終えると、両者はフリー・エージェントとなる権利を要求。調停人の裁定によって訴えが認められ、2人はどの球団とも自由に契約できることとなり、76年からFAは正式な制度として施行された。

 これは野球界にとどまらず、すべてのプロスポーツ選手にとって転機となる大勝利であり、その後、アスリートたちの年俸は右肩上がりとなった。元ホワイトソックスの投手、ボブ・ロッカーは「ミラーの銅像を造って殿堂の入り口に飾るべき。野球殿堂だけじゃなく、すべてのスポーツの殿堂がそうするべきだ」と言っている。82年にいったん職を退いたミラーは、選手たちに請われて84年にアドバイザーとして復帰。その後も90年までコンサルタントとして相談に乗り続けた。
 
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