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MLB

“途中解任された名将”マッドンの大先輩?ビリー・マーティンをめぐる愛と憎しみの“三角関係”【ダークサイドMLB】<SLUGGER>

出野哲也

2022.06.11

 そこに発生したのが57年の「コパカバーナ事件」だった。ニューヨークの有名なナイトクラブに繰り出したヤンキースの面々と酔客の間で揉め事が生じ、マーティンがその中の一人の顎を砕いたのである。実際に殴ったのは彼ではなかったとも言われているが、いずれにしろワイスにとってはマーティンを追い出す格好の口実になり、アスレティックスへトレードした。レッズ時代の60年にもカブスの投手ジム・ブルワーを殴り、顔を骨折させて100万ドルの損害賠償を要求される。この訴訟は10年近く続き、最終的に1万ドルを支払って決着した。

 引退後は69年にツインズ監督に就任、さっそく地区優勝を果たしながら、8月に主戦投手デーブ・ボズウェルと(例によって)酒場で喧嘩になり、20針を縫う怪我を負わせて1年で解任。その後、タイガースとレンジャーズでも結果を残して、名将との評判を揺るがぬものとすると、75年に古巣ヤンキースの監督に招かれた。

 その頃、スタインブレナーはすでにヤンキースのオーナーになっていた。クリーブランドの出身とあって、最初はインディアンスの買収に乗り出したが失敗。だが、73年にヤンキースを買収すると、沈滞が続いていた名門球団を蘇らせる。その切り札の一つがマーティンであり、76年には12年ぶりのリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではレッズに1勝もできなかったが、同年オフに選手に移籍の自由を認めるフリー・エージェント制度が導入された。資金には事欠かず、本拠ニューヨークの魅力も大きいヤンキースには願ってもない展開だった。
 
 そしてそのタイミングで、当時オリオールズに所属していたジャクソンもFAとなる。ジャクソンは、66年にドラフト全体2位でアスレティックスに指名されてプロ入り。なお1位指名権を持っていたメッツは、捕手が欲しいという理由でスティーブン・チルコットを選択した。チルコットはメジャーにすら上がれず、ジャクソンを取らなかったのはドラフト史上最悪の大失敗とも言われている。ヤンキース入りするずっと前に、彼はニューヨークの英雄となっていたかもしれなかったのだ。

 レギュラー2年目の69年に前半戦だけで37本塁打を放ち、一躍若手のトップスターになる。同年は47本でタイトルにこそ届かなかったが、OPS1.018はリーグ1位。73年は32本塁打、117打点の二冠を獲得してMVPに選ばれ、ワールドシリーズでもMVPに輝いた。

 しかし、アスレティックス時代も「俺こそ最高の野球選手。うぬぼれと言われても嘘はつけないからな」と嘯くなど、歯に衣着せぬ言動でワンマンオーナーのチャールズ・フィンリーと何度も衝突した。FA制の導入が決まると、残留の見込みはまったくないと悟ったフィンリーは、ジャクソンをオリオールズへ放出したのだった。FA市場の目玉だったジャクソンだが、意外にもヤンキースが一番のターゲットにしていたのはオリオールズの二塁手ボビー・グリッチだった。しかしエンジェルス行きを望んだグリッチに袖にされると方向転換し、ジャクソンに5年300万ドルの好条件を提示して獲得に成功した。

 ジャクソンは入団早々「俺のいるチームなら、レッズに4連敗したりしない」と言い放ってチームメイトの反感を買った一方、32本塁打、110打点と好成績を収めた。そして、ドジャースとのワールドシリーズでは、第5戦の最終打席から第6戦にかけて圧巻の4打数連続本塁打。ベーブ・ルース以来史上2人目の快挙であり、対戦相手のスティーブ・ガービーまでもが「こっそり拍手を送っていた」ほどだった。その栄光の日から、マーティンの退陣まで9ヵ月しか経っていなかった。
 
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