1980年代のNBAでは、今よりもはるかに激しい肉弾戦が展開されていた。そんななかでも強さが際立っていたのが、チャールズ・オークリーだ。シカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンやニューヨーク・ニックスのパトリック・ユーイングなど、スター選手の文字通り“用心棒”として活躍したビッグマンは、現在ではすっかり減少した、「オールドタイプのPF」の典型であった。
◆ ◆ ◆
オークリーはジョーダンにとってチームで一番の親友でもあった。ジョーダンの自宅で一緒に卓球を楽しむこともしばしばで、オークリーは器用なラケット捌きで勝利を収め、負けず嫌いのスターを何度も悔しがらせたという。
しかし、88年のオフに突如としてニックスへの移籍が決まる。
ブルズはオークリーとポジションが被る2年目のホーレス・グラントに先発を任せられる目途が立ち、その一方で期待外れだったブラッド・セラーズに代わるセンターを探していた。一方のニックスは、先発センターを務められる実力を持つビル・カートライトを交換要員に、ユーイングの脇を固められるPFを求めていた。こうして両者のニーズが一致してトレードは成立するのだが、ジェリー・クラウスGMはオークリーを手放すのが惜しく、自らトレードを決めておきながら涙を流したという。
ジョーダンも涙こそ流さなかったものの、怒り心頭に発する。「グラントやカートライトではオークの代わりは務まらない」と公言し、その後もこの2人に対してはきつく当たった。コート上では絶大な信頼を置く相棒、オフコートでも親しい友人を失ったのだから、気持ちはわからないでもなかった。そしてこれは当然、オークリーにとっても寝耳に水の知らせだった。
「その時、俺はマイケルと一緒に、ボクシングのスピンクス対タイソン戦の会場にいたんだ。ゴングが鳴る前に観客の1人から『オーク、君はトレードされたぞ』と聞かされたのさ」。
それでも彼は首脳陣に文句を言うでもなく、プロフェッショナルらしい態度でニューヨークへ旅立ったのである。
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オークリーはジョーダンにとってチームで一番の親友でもあった。ジョーダンの自宅で一緒に卓球を楽しむこともしばしばで、オークリーは器用なラケット捌きで勝利を収め、負けず嫌いのスターを何度も悔しがらせたという。
しかし、88年のオフに突如としてニックスへの移籍が決まる。
ブルズはオークリーとポジションが被る2年目のホーレス・グラントに先発を任せられる目途が立ち、その一方で期待外れだったブラッド・セラーズに代わるセンターを探していた。一方のニックスは、先発センターを務められる実力を持つビル・カートライトを交換要員に、ユーイングの脇を固められるPFを求めていた。こうして両者のニーズが一致してトレードは成立するのだが、ジェリー・クラウスGMはオークリーを手放すのが惜しく、自らトレードを決めておきながら涙を流したという。
ジョーダンも涙こそ流さなかったものの、怒り心頭に発する。「グラントやカートライトではオークの代わりは務まらない」と公言し、その後もこの2人に対してはきつく当たった。コート上では絶大な信頼を置く相棒、オフコートでも親しい友人を失ったのだから、気持ちはわからないでもなかった。そしてこれは当然、オークリーにとっても寝耳に水の知らせだった。
「その時、俺はマイケルと一緒に、ボクシングのスピンクス対タイソン戦の会場にいたんだ。ゴングが鳴る前に観客の1人から『オーク、君はトレードされたぞ』と聞かされたのさ」。
それでも彼は首脳陣に文句を言うでもなく、プロフェッショナルらしい態度でニューヨークへ旅立ったのである。