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【NBAデュオ列伝】解散、再結成、そしてまた別の道へ。そのすべての過程が、ジョーダンとピッペンを“史上最高のデュオ”たらしめた|後編

出野哲也

2020.05.15

ピッペン(右)はジョーダン(左)がいなければ、これほど称賛されることはなかっただろう。しかし逆もまた然りで、ジョーダンにもピッペンが絶対に必要だったのだ。(C)Getty Images

■ジョーダンの引退で一時デュオ解散、そして再結成し約束の地へ

 シカゴ・ブルズが3連覇を達成してから約3か月後の1993年10月、マイケル・ジョーダンが突然の現役引退を発表。スコッティ・ピッペンは、一夜にしてブルズを背負う役目を任されることになる。

 しかし、ピッペンには荷が重かった。象徴的だったのが1994年、ニューヨーク・ニックスとのカンファレンス決勝第3戦で起きた"座り込み事件"だ。

 1点差を追う試合時間残り1.8秒の場面で、フィル・ジャクソン・ヘッドコーチ(HC)は最後のオフェンスを自分ではなく、新人のトニー・クーコッチに任せると指示。これに激怒したピッペンは、タイムアウト明けにコートに戻ることを拒否したのだ。

「スコッティは、自分の行動がどれだけの影響を及ぼすかわかっていなかった」(スティーブ・カー)

 この一件で、再びピッペンの評価は急落してしまった。
 
 その頃、ジョーダンも同じように苦しんでいた。野球という新たな挑戦に心は燃えていたが、マイナーリーグでの1年は散々な成績に。『スポーツイラストレイテッド』誌には「ジョーダンは野球を侮辱している」とまで書かれてしまう。

 だが、これは決して無駄な経験ではなかった。努力してもできないことがあるということがわかり、能力の劣る選手の気持ちが理解できるようになったのだ。NBA復帰後の彼は、以前のような冷酷さが影を潜め、多少ではあるが寛大な人間になった。

 1995年3月、バスケットコートに戻ったジョーダンは、ピッペンの存在が重要さを増していることに気づく。「マイケルがいない間、彼は毎晩標的になることの大変さを知った」とジャクソンHCが語ったように、中心選手としての役割を課せられ、ピッペンは大きく成長していた。

 ジョーダンの伝記を書いたデビッド・ハルバースタムはこのように記している。

「自分がマイケル・ジョーダンであり続けるためには、スコッティ・ピッペンが必要だということに気づいたのだ。こうして今、初めて相互の依存関係ができあがった……どんな時でも相手が何を望み、何を必要としているかがわかっていたので、お互いの頭の中では双子のようになっていた」

 かつては頼りなく、不満の種だった男は、ジョーダンにとって不可欠の存在になっていたのだ。
 
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