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NBA

【名作シューズ列伝】コンバースを牽引したバードの“最後の相棒”。機能面は平凡も、モデル名にレジェンドへの愛が凝縮

西塚克之

2020.05.27

ケガによって五輪での役割は制限されたバードだが、予選のドイツ戦では19得点を叩き出した。(C)Getty Images

ケガによって五輪での役割は制限されたバードだが、予選のドイツ戦では19得点を叩き出した。(C)Getty Images

 人に歴史あり。バスケにスーパースターあり。スーパースターにシグネチャーモデルあり。シグネチャーモデルにBOXあり! 

 初代ドリームチームのシグネチャーモデル第7弾、本編12箱目は、“レジェンド”ことラリー・バードが着用したモデルのお話です。

 インディアナ州のウエストバーデンで生まれたバードは、高校まで順調に選手としてのキャリアを積み上げ、大学は名称ボビー・ナイト率いるインディアナ大へ。しかし、新しい生活に馴染むことができず、入学からわずか1か月で退学し故郷に戻ってしまいます。

 結婚と離婚、父親の自殺とコート外での問題も抱えていたバードですが、バスケットの才能は本物で、インディアナ州大のコーチに勧誘されて1975年6月に同大へ入学します。4年時の79年にはシーズン無敗でチームをNCAAトーナメント決勝に導き、ネイスミス賞とウッデン賞をダブル受賞。最後の相手は、のちにロサンゼルス・レイカーズへ入団するマジック・ジョンソン擁するミシガン州大でした。バードは大一番で19得点、13リバウンドをマークするも、インディアナ州大は64対75で敗れて優勝はならず。ただ、彼にとってマジックという一生涯のライバルを得ることになりました。
 
 同年にボストン・セルティックスに入団すると13年間のキャリアで優勝3回、シーズンMVP3回、ファイナルMVP2回、オールスター出場12回と輝かしい実績を残しました。特に印象的だったのは、オールスターの3ポイントコンテスト。第1回大会から3大会連続で頂点に立っており、その勝負強さは圧巻でした。

 キャリアの晩年は足の負傷や腰痛によって欠場が増え、出場した試合でもベンチに座らず、フロアに横になって身体を休ませる姿がよく見られました。34歳で迎えた1991-92シーズンは45試合の出場にとどまり、いよいよ引退かと覚悟を決めたことを思い出します。

 五輪を1年後に控えた91年のオフ、バードにアメリカ代表からのオファーが届きました。健康問題もあって当初は出場に難色を示していたものの、ライバルのマジックからの誘いや、セルティックス関係者からの説得によって参加を決意したのです。
 

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