ニューヨーク・ニックスはNBA最古の球団として知られ、1970、73年に優勝。1990年代にはパット・ライリー・ヘッドコーチ(HC)の下、パトリック・ユーイングやジョン・スタークス、チャールズ・オークリー、アンソニー・メイソンらタフなメンバーを揃え、毎年プレーオフで上位に進出する、リーグでも指折りのエリートチームだった。
70、73年優勝メンバーのウィリス・リードとウォルト・フレイジャー、80年代にスコアラーとして鳴らしたバーナード・キング、90年代の看板選手だったユーイングとスタークス、99年“ミラクルニックス”の立役者となったアラン・ヒューストン&ラトレル・スプリーウェル等、名門は各年代でスターを輩出してきた。彼らの加入はドラフトやトレード、FA契約など様々だが、中には交渉を進めながら、実現しなかったものもある。フランチャイズの歴史を変える可能性もあった“未遂”の取引を『ClutchPoints』が紹介している。
■カーメロ・アンソニーの移籍先
■レジー・ミラーとの契約
■コビー・ブライアントの獲得
ニックス史上最高のプレーヤーの1人であるカーメロ・アンソニー。11年にデンバー・ナゲッツからトレードで加入したスコアラーは、7年間の在籍で平均24.7点、7.0リバウンド、3.2アシストと好成績を残した。13年のプレーオフではチームを13年ぶりにカンファレンス準決勝まで導いたものの、年を追うごとに成績は下降し、首脳陣は17年にエースをオクラホマシティ・サンダーに放出する。
この時、サンダーのほかに移籍先候補に挙がっていたのがカーメロの友人クリス・ポールがいたロサンゼルス・クリッパーズだった。交換要員としてクリッパーズはジャマール・クロフォード、ポール・ピアース、オースティン・リバースの3人を提示。ニックスにとって悪くない話だったものの、首脳陣はサンダーとのトレードを敢行する。結果的にこの取引に含まれていたドラフト指名権で、チームは現主力のミッチェル・ロビンソン(18年2巡目36位)を獲得した。
しかし、この取引を興味深いものにしているのは、ポール、ブレイク・グリフィン、ディアンドレ・ジョーダンの“ロブシティ”の終焉につながったことだ。司令塔のポールは、息子オースティンのトレードに難色を示したHC兼球団社長のドック・リバースを批判したと言われている。結局ポールは17年のオフにヒューストン・ロケッツへトレードされ、当のカーメロも新天地サンダーに馴染めず、わずか1年で放出された。
70、73年優勝メンバーのウィリス・リードとウォルト・フレイジャー、80年代にスコアラーとして鳴らしたバーナード・キング、90年代の看板選手だったユーイングとスタークス、99年“ミラクルニックス”の立役者となったアラン・ヒューストン&ラトレル・スプリーウェル等、名門は各年代でスターを輩出してきた。彼らの加入はドラフトやトレード、FA契約など様々だが、中には交渉を進めながら、実現しなかったものもある。フランチャイズの歴史を変える可能性もあった“未遂”の取引を『ClutchPoints』が紹介している。
■カーメロ・アンソニーの移籍先
■レジー・ミラーとの契約
■コビー・ブライアントの獲得
ニックス史上最高のプレーヤーの1人であるカーメロ・アンソニー。11年にデンバー・ナゲッツからトレードで加入したスコアラーは、7年間の在籍で平均24.7点、7.0リバウンド、3.2アシストと好成績を残した。13年のプレーオフではチームを13年ぶりにカンファレンス準決勝まで導いたものの、年を追うごとに成績は下降し、首脳陣は17年にエースをオクラホマシティ・サンダーに放出する。
この時、サンダーのほかに移籍先候補に挙がっていたのがカーメロの友人クリス・ポールがいたロサンゼルス・クリッパーズだった。交換要員としてクリッパーズはジャマール・クロフォード、ポール・ピアース、オースティン・リバースの3人を提示。ニックスにとって悪くない話だったものの、首脳陣はサンダーとのトレードを敢行する。結果的にこの取引に含まれていたドラフト指名権で、チームは現主力のミッチェル・ロビンソン(18年2巡目36位)を獲得した。
しかし、この取引を興味深いものにしているのは、ポール、ブレイク・グリフィン、ディアンドレ・ジョーダンの“ロブシティ”の終焉につながったことだ。司令塔のポールは、息子オースティンのトレードに難色を示したHC兼球団社長のドック・リバースを批判したと言われている。結局ポールは17年のオフにヒューストン・ロケッツへトレードされ、当のカーメロも新天地サンダーに馴染めず、わずか1年で放出された。