1980~90年代にかけて、バスケットボールマーケットで一気にブランドシェアを拡大したナイキ。その背景には、いくつかのキーポイントがあった。
もちろん、最も大きなターニングポイントはマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)とのエンドースメント契約であることに間違いはない。ここからジョーダンとナイキの蜜月関係は始まり、ジョーダンのオンコートでのパフォーマンスとナイキが仕掛けるプロダクト(シューズ)とマーケティング(広告、PR)が、コンシューマーに大きく受け入れられた。
もしこの出来事がなかったら、ナイキは今日のように世界を圧巻し、ダントツのスポーツブランドになっていただろうか。戦国武将にとって天下に名を知らしめる戦があるように、ナイキにはこれが大きな物語の序章部分だったのだ。
しかし、もし当時のナイキが"アスリート側に立った思考"を欠くブランドだったら……。現在のようなナイキにはたしてなっていたのかという思いもある。
私の知る限りでは、1980、90年代にナイキのシューズデザインをしていたデザイナーは、靴を完成させるまでのプロセスに一定の流れがあったように思う。
「最終目的がどこにあるのかで、デザインしていく上でのアプローチというか道筋は変わっていく。ひとつのシューズを開発するのに1、2年かけてプロジェクトを進めていくのだが、その過程で一番重要なのは、そのシューズがなぜそこに存在するのかの情報収拾、情報整理、情報をシューズに落とし込む、そしてシューズにイノベーションそのものがあるのかどうか。そういう軸を持ってデザインを進めていた」
そう話すのは、田臥勇太(宇都宮ブレックス)のシグネチャーモデルである『エア・ズームブレイブ』をはじめ、数々のデザインを担当した経験を持つジェフリー・ヘンダーソン。多くのデザイナーが働くナイキのなかの"バスケットボールシューズ"というカテゴリーにおいて、コミュニケーションを図り意思を統一する上で重要だったのは、シューズが"シグネチャー系"、"フォース系"、"フライト系"、"アップテンポ系"のどの分類に属しているかを把握することだとヘンダーソンは言う。
もちろん、最も大きなターニングポイントはマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)とのエンドースメント契約であることに間違いはない。ここからジョーダンとナイキの蜜月関係は始まり、ジョーダンのオンコートでのパフォーマンスとナイキが仕掛けるプロダクト(シューズ)とマーケティング(広告、PR)が、コンシューマーに大きく受け入れられた。
もしこの出来事がなかったら、ナイキは今日のように世界を圧巻し、ダントツのスポーツブランドになっていただろうか。戦国武将にとって天下に名を知らしめる戦があるように、ナイキにはこれが大きな物語の序章部分だったのだ。
しかし、もし当時のナイキが"アスリート側に立った思考"を欠くブランドだったら……。現在のようなナイキにはたしてなっていたのかという思いもある。
私の知る限りでは、1980、90年代にナイキのシューズデザインをしていたデザイナーは、靴を完成させるまでのプロセスに一定の流れがあったように思う。
「最終目的がどこにあるのかで、デザインしていく上でのアプローチというか道筋は変わっていく。ひとつのシューズを開発するのに1、2年かけてプロジェクトを進めていくのだが、その過程で一番重要なのは、そのシューズがなぜそこに存在するのかの情報収拾、情報整理、情報をシューズに落とし込む、そしてシューズにイノベーションそのものがあるのかどうか。そういう軸を持ってデザインを進めていた」
そう話すのは、田臥勇太(宇都宮ブレックス)のシグネチャーモデルである『エア・ズームブレイブ』をはじめ、数々のデザインを担当した経験を持つジェフリー・ヘンダーソン。多くのデザイナーが働くナイキのなかの"バスケットボールシューズ"というカテゴリーにおいて、コミュニケーションを図り意思を統一する上で重要だったのは、シューズが"シグネチャー系"、"フォース系"、"フライト系"、"アップテンポ系"のどの分類に属しているかを把握することだとヘンダーソンは言う。