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【NBAデュオ列伝】決別を選び、波瀾万丈のキャリアを歩んだ魅惑のコンビ。T-MACとの再会はカーターの殿堂入り式典で|後編

出野哲也

2020.07.24

2年の共闘後、T-MAC(左)はマジックへ移籍。カーター(右)ものちにラプターズを去り、波瀾万丈のキャリアを送った。(C)Getty Images

■第二のMJ&ピッペンに訪れた突然の決別

 カーターとT-MACの活躍で、ラプターズは創設5年目で初の勝ち越しとなる45勝を記録。プレーオフでは1回戦でニューヨーク・ニックスに3連敗したが、カーターとT-MACさえ健在ならば、ラプターズの未来は明るいと誰もが思った。ところが、これが彼らにとって一緒にプレーした最後のシーズンとなってしまったのである。

「ヴィンスと俺は、ジョーダンとピッペンのようになるのさ。俺はピッペンのほうだけどね」。かねてそう言っていたT-MACだったが、本心は違っていた。彼はカーターの日陰に回るつもりはなかった。ピッペン役ではなく、自分自身がジョーダンになるべく野心を燃やしていたのだ。

 99-00シーズン終了後、T-MACは6年7000万ドルというラプターズからの契約延長の申し出を拒否し、フリーエージェントとなった。地元フロリダのマイアミ・ヒートとオーランド・マジックによる争奪戦の末、少年時代に憧れたマジックへ入団。背番号は、かつて憧れのハーダウェイが背負っていた1番に決まった。
 
 カーターとの決別は後味の悪いものになった。そのきっかけはT-MACの母親の「トロントでは何でもヴィンス、ヴィンスで、もううんざりよ」という談話が雑誌に載ったことだった。コメントを求められたカーターは何も発言しなかったが、こんな言葉を聞かされて面白いわけがない。T-MACからの電話に出ないほど、一時2人の仲は悪化した。

 こうしたゴタゴタこそあったが、マジックへの移籍はT-MACにとって吉と出た。オフェンスの中核を任されたことで、得点は前年を10点以上も上回る平均26.8点まで伸ばし、MIP(最優秀成長選手賞)にも選出された。プレーオフでは1回戦でミルウォーキー・バックスに敗れたが、4試合で135得点(平均33.8点)を稼ぐなど、個人的には文句なしの大活躍だった。

 カーターは2000年のシドニー五輪にアメリカ代表チームの一員として出場。7フッターのフランス人センターを飛び越える"人間越えダンク"をお見舞いするなど、世界中のファンを沸かせて金メダル獲得に貢献した。
 
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