NBA

ABAvsNBA――1970年代に勃発した2つのライバルリーグによる“仁義なき新人争奪戦”

出野哲也

2020.11.20

のちにNBAでも活躍するアービング(左)やガービン(右)はもともとABA出身。リーグを代表するスター選手として人気を博した。(C)Getty Images

劣勢のABAが〝禁じ手〞の アンダークラスメンに触手

 1967年、NBAに対抗する第2のメジャー・バスケットボールリーグとして創設されたABAは、赤・青・白の3色ボールや3ポイントシュートの導入など、様々な新機軸を打ち出して話題を集めた。

 当時のNBAではあまり見られなかったダンクが乱れ飛ぶ、派手なプレースタイルは刺激的で「NBAは楽譜通りに演奏する交響楽団、ABAは即興演奏のジャズバンド」(代理人のロン・グリンカー)と形容された。現在のサンアントニオ・スパーズ、デンバー・ナゲッツ、インディアナ・ペイサーズ、ブルックリン・ネッツはABAから合流した球団で、リック・バリーやビリー・カニングハムのように、NBAからスター選手が移籍してきたこともあった。

 しかしながら地方都市を本拠地とする球団が多く、テレビの全米中継もない後発リーグの悲しさで、選手集めには苦戦を強いられた。ドラフトでもNBAと指名が被れば、大抵の選手は大都市を本拠とし、より財政的な基盤が安定しているNBAのほうを選んだ。

 例えばニューヨーク生まれのルー・アルシンダー(71年にカリーム・アブドゥル・ジャバーに改名)は、地元に本拠を置くABAのネッツではなく、結成2年目で縁もゆかりもなかったNBAのミルウォーキー・バックスに69年のドラフトで入団している。ABA側はリーグぐるみでアルシンダーを引き入れようと、コミッショナーを務めていたかつてのNBAの名選手、ジョージ・マイカンが直々に交渉に当たったが、マイカンは切り札として用意していた100万ドルの小切手を出し損ね、ABAの歴史を変えたかもしれない大物を取り逃がしたのだった。
 
 最初の3年間で、NBAの1巡目指名を蹴ってABA入りしたのはメル・ダニエルズら2人だけだった。67年、シンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)の9位指名を拒否したダニエルズはミネソタ・マスキーズに入団、その後はペイサーズで活躍して殿堂入りも果たしている。

 新人獲得競争で苦戦続きのABAが目を付けたのは、当時のNBAドラフトでは認められていなかったアンダークラスメン(大学3年生以下)の選手だった。貧しい家庭に育った選手たちにとって、1日でも早くプロ入りできて給料を稼げるのは大きな魅力だった。こうしてABAが手に入れた最初の大物が、68年のメキシコ五輪でアメリカ代表のエースとして活躍したスペンサー・ヘイウッドである。