パトリック・ユーイングと言えば、ニューヨーク・ニックスで15年間プレーし、長年チームの主力を担ったフランチャイズのレジェンドだ。現在は母校ジョージタウン大のヘッドコーチを務めているが、かつての本拠地であるマディソンスクエア・ガーデン(MSG)で、受け入れがたい出来事があったという。
ジョージタウン大は3月11日(日本時間12日)、ビッグイースト・トーナメント準々決勝でビラノバ大と対戦。終盤までもつれるシーソーゲームとなった試合は、1点ビハインドで迎えた残り4.7秒にこの日チームトップの18得点をあげたダンテ・ハリスがフリースロー2本を決めて72-71と逆転し、そのまま逃げ切った。
2015年以来となる準決勝進出で歓喜に沸いたなか、コーチのユーイングは素直に喜べない事態に遭遇していたようだ。『ESPN』で「ひとつだけ言っておきたい」と、試合後のあるエピソードを明かしている。
「MSGは"私の建物"だと思っていた。呼び止められて、パス(通行許可証)を求められるなんて、ひどい気分だよ。この建物にいる人間は全員、私が誰かを知っているべきだ。私は止められて、ここから動くことができなかった。『なんてこった! ここは本当にMSGか?』という気持ちだったね」
ユーイングは1985年のドラフト全体1位でニックスに指名されてNBA入り。1年目から平均20.0点、9.0リバウンド、2.06ブロックの好成績を残して新人王に輝いた。プロ入りから13年連続で平均20点以上をあげ、1993-94シーズンと98-99シーズンにはファイナル進出に貢献。シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)へ移籍するまでの在籍15年間で通算1039試合出場、2万3665得点(平均22.8点)、1万759リバウンド(同10.4本)、2758ブロック(同2.65本)を記録するなど、フランチャイズプレーヤーとして君臨した。それだけに、ユーイングが「MSGで自分を知らない人間はいない」と思うのも当然だろう。
ジョージタウン大は3月11日(日本時間12日)、ビッグイースト・トーナメント準々決勝でビラノバ大と対戦。終盤までもつれるシーソーゲームとなった試合は、1点ビハインドで迎えた残り4.7秒にこの日チームトップの18得点をあげたダンテ・ハリスがフリースロー2本を決めて72-71と逆転し、そのまま逃げ切った。
2015年以来となる準決勝進出で歓喜に沸いたなか、コーチのユーイングは素直に喜べない事態に遭遇していたようだ。『ESPN』で「ひとつだけ言っておきたい」と、試合後のあるエピソードを明かしている。
「MSGは"私の建物"だと思っていた。呼び止められて、パス(通行許可証)を求められるなんて、ひどい気分だよ。この建物にいる人間は全員、私が誰かを知っているべきだ。私は止められて、ここから動くことができなかった。『なんてこった! ここは本当にMSGか?』という気持ちだったね」
ユーイングは1985年のドラフト全体1位でニックスに指名されてNBA入り。1年目から平均20.0点、9.0リバウンド、2.06ブロックの好成績を残して新人王に輝いた。プロ入りから13年連続で平均20点以上をあげ、1993-94シーズンと98-99シーズンにはファイナル進出に貢献。シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)へ移籍するまでの在籍15年間で通算1039試合出場、2万3665得点(平均22.8点)、1万759リバウンド(同10.4本)、2758ブロック(同2.65本)を記録するなど、フランチャイズプレーヤーとして君臨した。それだけに、ユーイングが「MSGで自分を知らない人間はいない」と思うのも当然だろう。
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