デニス・ロッドマンと言えば、NBA随一の悪童として語り継がれている一方で、史上最高のリバウンダーとしての呼び声も高かった。7年連続リバウンド王は、偉人ウィルト・チェンバレンを上回る連続記録で、優勝も5回経験している。シカゴ・ブルズ時代の同僚だったスティーブ・カー(現ゴールデンステイト・ウォリアーズ・ヘッドコーチ)が、希代の職人の“哲学”について見解を述べている。
ロッドマンはアイザイア・トーマス、ジョー・デュマース、ビル・レインビアらとともに“バッドボーイズ”の異名を取ったデトロイト・ピストンズの一員として、1989、90年とリーグ連覇を達成。90、91年には2年連続で最優秀守備選手賞に輝くなど、名将チャック・デイリーの下でチームに欠かせない選手へと成長していった。
ピストンズ時代は、2年目の1987-88シーズンに自己最多の平均11.6点をあげるなど得点面でも貢献していたが、1993年10月のサンアントニオ・スパーズ移籍以降はリバウンド職人色が強くなり、ブルズではマイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペンの強力デュオを支える黒子役として、96~98年の後期3連覇に大きく貢献した。
1991-92シーズンから7年連続リバウンド王に輝いた間、平均14.9本を下回ることは一度もないハイアベレージを残した一方、ブルズでの3シーズンは平均5.2点とスコアリングには“無頓着”だったことが数字からもうかがえる。
そんなロッドマンと同僚として3連覇の喜びを分かち合ったカーは、『KNBR』の番組「Tolbert, Krueger and Brooks」で、こう語っている。
「彼は得点しないことに誇りを持っていたと思う。型にはまらない男だからね。シカゴで一緒にプレーしていた時、彼はオフェンシブ・リバウンドを取って、レイアップでゴールに入れる、あるいは味方にボールを戻すというゲームをしていた。もっとリバウンドが取れるように、さらにシュートが外れることを望んでいたと思う(笑)」
当時のブルズは、名将フィル・ジャクソンが標榜するトライアングル・オフェンスを軸としていたが、ロッドマンは驚くべきスピードでシステムを吸収していったという。
「彼はすぐにトライアングル(オフェンス)を習得した。時間にして3日。まだ理解できていない選手もたくさんいたよ。彼はゲームの実戦感覚が素晴らしいし、もっとたくさん得点できたはずだけど、デニス・ロッドマン(という独自の存在)でありたかったんだ」
ロッドマンはアイザイア・トーマス、ジョー・デュマース、ビル・レインビアらとともに“バッドボーイズ”の異名を取ったデトロイト・ピストンズの一員として、1989、90年とリーグ連覇を達成。90、91年には2年連続で最優秀守備選手賞に輝くなど、名将チャック・デイリーの下でチームに欠かせない選手へと成長していった。
ピストンズ時代は、2年目の1987-88シーズンに自己最多の平均11.6点をあげるなど得点面でも貢献していたが、1993年10月のサンアントニオ・スパーズ移籍以降はリバウンド職人色が強くなり、ブルズではマイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペンの強力デュオを支える黒子役として、96~98年の後期3連覇に大きく貢献した。
1991-92シーズンから7年連続リバウンド王に輝いた間、平均14.9本を下回ることは一度もないハイアベレージを残した一方、ブルズでの3シーズンは平均5.2点とスコアリングには“無頓着”だったことが数字からもうかがえる。
そんなロッドマンと同僚として3連覇の喜びを分かち合ったカーは、『KNBR』の番組「Tolbert, Krueger and Brooks」で、こう語っている。
「彼は得点しないことに誇りを持っていたと思う。型にはまらない男だからね。シカゴで一緒にプレーしていた時、彼はオフェンシブ・リバウンドを取って、レイアップでゴールに入れる、あるいは味方にボールを戻すというゲームをしていた。もっとリバウンドが取れるように、さらにシュートが外れることを望んでいたと思う(笑)」
当時のブルズは、名将フィル・ジャクソンが標榜するトライアングル・オフェンスを軸としていたが、ロッドマンは驚くべきスピードでシステムを吸収していったという。
「彼はすぐにトライアングル(オフェンス)を習得した。時間にして3日。まだ理解できていない選手もたくさんいたよ。彼はゲームの実戦感覚が素晴らしいし、もっとたくさん得点できたはずだけど、デニス・ロッドマン(という独自の存在)でありたかったんだ」