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NBA

“ザ・ドリーム”オラジュワン&“グライド”ドレクスラー。ヒューストン大の名コンビがNBAで共闘するまで【NBAデュオ列伝|前編】

出野哲也

2022.02.02

オラジュワン(左)とドレクスラー(右)はヒューストン大時代に友情を育んだ。(C)Getty Images

オラジュワン(左)とドレクスラー(右)はヒューストン大時代に友情を育んだ。(C)Getty Images

 その瞬間、ヒューストン大のアキーム・オラジュワンとクライド・ドレクスラーは、呆然とボールの行方を見つめていた。

 1983年のNCAAトーナメント、決勝戦の終了間際だった。ノースカロライナ州大の最後のシュートはリングを大きく外した。だが、そのボールをロレンゾ・チャールズがリムの手前でつかみ、そのままダンクを叩き込んだのだ。圧倒的優位を予想されていたヒューストン大が、52-54でノースカロライナ州大に敗れた瞬間だった。

「あのあと何年も、僕とアキームは会うたびにあの試合について語り合った」とドレクスラーは振り返る。「20試合戦えば、19試合は僕たちが勝っていただろう。あれはまさに運命の試合だった」。

 ドレクスラーにとって、これが大学生活最後の試合になった。彼とオラジュワンが同じユニフォームに再び身を包むまで、それから12年の歳月を必要とした。

 2人が初めて会ったのは、ヒューストン大のキャンパスだった。1年先輩のドレクスラーは地元の高校出身で、当時のヒューストン・ロケッツのフォワード、ロバート・リードとは知り合いだった。

「ロバートは僕を車に乗せて試合会場まで連れていってくれたりした。モーゼス・マローンと一緒に練習をしたこともあるよ。ロケッツでいつかプレーするのが、僕の夢だった」

 もっとも高校時代のドレクスラーは無名で、有名大学からの誘いはほとんどなかった。彼の素質が開花したのは、ヒューストン大を30年にわたって指揮した伝説のコーチ、ガイ・ルイスと出会い、新入生ながら先発メンバーに抜擢されてからだった。
 
「他の学校が全然目をつけなかったなんて信じられん。クライドがリムに向かっていく姿を見れば、先発で使うことにまったく迷いはなかった」

 ルイスの期待にドレクスラーは応えた。同級生のジム・ナンツ(のちにCBSのスポーツ・アナウンサーとなる)は、彼に“グライド(滑空)”というニックネームを与えた。クライドのもじりであるのと同時に、そのプレースタイルを的確に表現するニックネームだ。優雅に空中を滑ってゆくドレクスラーの華麗なダンクは、見る者に鮮烈な印象を残した。

 一方のオラジュワンは、ナイジェリアからアメリカにやってきたばかりだった。名前のアキームのスペルは当時、HakeemではなくAkeemだった。もともとサッカーのゴールキーパーで、バスケットボールの経験はほんのわずかしかなかった。アメリカの大学でプレーすることにしたのも「奨学金を貰いながら勉強ができて、学位が取れたら仕事に生かせるだろう」という動機からだった。

 ルイスはこの大男にまったく期待をかけておらず「正直、最初はアキームがどれほどの選手かはわからなかった」という。だが、ドレクスラーの見方は違った。

「もちろんアキームがこの地上で最高の選手になるなんて思ってはいなかった。でも彼の練習ぶりや生活態度を見ていれば、いつかとてつもない選手になることは想像できた」
 
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