オラジュワンもドレクスラーに対して同じ見方をしていた。
「クライドのプレーを見てすぐに、これはプロになる人だなと思ったよ。それに、人間的にも最高だった」
2人には共通する部分がたくさんあった。物静かで真面目。他人から注目されるのは苦手だが、競争心は人一倍あった。オラジュワンとドレクスラーの間に友情が生まれるのに、さほどの時間はかからなかった。
ルイスにバスケットボールの基礎を一から叩き込まれ、急速に実力を伸ばしたオラジュワンは″アキーム・ザ・ドリーム″の名を授けられる。アメリカン・ドリームを追いかけて海を渡ったオラジュワンはまた、コーチにとっても夢のような選手に成長していった。
ドレクスラー、オラジュワン、ラリー・ミショーの3人は、派手なダンクを連発し観客を魅了した。規律を重んじ、派手なプレーを好まないコーチが多かった当時の大学バスケット界にあって、ヒューストン大は異端的な存在だった。
やがてこのトリオは、成績優秀な学生の称号であるファイ・ベーダ・カッパ(優等学生友愛会)をもじって、ファイ・スラマ・ジャマ(ダンク友愛会)と呼ばれるようになった。
華やかさだけでなく、実力も一級品だった。82、83年と2年続けてNCAAのファイナル・フォーに進出。83年にはランキング1位、優勝候補の最右翼と思われていた。だが、26連勝で迎えた決勝戦で格下のノースカロライナ州大に足を掬われた。スローテンポの試合展開に持ち込まれ、ダンクはわずか1本しか決められなかった。この試合は、今でもカレッジ・バスケットボール史上有数の番狂わせとして語り継がれている。
ドレクスラーにとって、優勝を果たせなかったのは心残りだったが、オールアメリカンに選ばれたこともあり、プロへの転向を決意した。だがNBAの評価は予想以上に低く、ポートランド・トレイルブレイザーズの14位指名だった。ジャンプショットが不安定で、ディフェンスもあまり良くなかったのがその理由だった。
「ジュリアス・アービングの再来だ」という声もある一方、「試合が決まってからショーを演じるだけのダンカーに過ぎない」という評価もあった。それでも、名将ジャック・ラムジーの下でアウトサイドシュートの改善に取り組んだドレクスラーは、着実に力をつけ、3年目にはオールスターに選ばれるまでに成長した。
大学に留まったオラジュワンは、84年に3年連続でファイナル・フォーに進んだが、ジョージタウン大のパトリック・ユーイングとのビッグマン対決に敗れ、またも涙を呑んだ。
それでも84年のドラフトでは最高の評価を得て、1位で指名されることは確実だった。当時のドラフトでは、東西両カンファレンスの最下位球団がコイントスをして1、2位の指名順位を決めていた。この年はウエスタン最下位のロケッツと、イースタン最下位のインディアナ・ペイサーズから指名権を獲得していたブレイザーズがコイントスに臨んだ。
結果的にオラジュワンは表を選んだロケッツに指名されたが、もし裏が出ていればブレイザーズに指名され、再びドレクスラーとチームメイトになっていたはずだ(センターが欲しかったブレイザーズは、2位指名権を使って、マイケル・ジョーダンを差し置いてサム・ブーイというビッグマンを獲得した)。(後編に続く)
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2004年6月号原稿に加筆・修正
「クライドのプレーを見てすぐに、これはプロになる人だなと思ったよ。それに、人間的にも最高だった」
2人には共通する部分がたくさんあった。物静かで真面目。他人から注目されるのは苦手だが、競争心は人一倍あった。オラジュワンとドレクスラーの間に友情が生まれるのに、さほどの時間はかからなかった。
ルイスにバスケットボールの基礎を一から叩き込まれ、急速に実力を伸ばしたオラジュワンは″アキーム・ザ・ドリーム″の名を授けられる。アメリカン・ドリームを追いかけて海を渡ったオラジュワンはまた、コーチにとっても夢のような選手に成長していった。
ドレクスラー、オラジュワン、ラリー・ミショーの3人は、派手なダンクを連発し観客を魅了した。規律を重んじ、派手なプレーを好まないコーチが多かった当時の大学バスケット界にあって、ヒューストン大は異端的な存在だった。
やがてこのトリオは、成績優秀な学生の称号であるファイ・ベーダ・カッパ(優等学生友愛会)をもじって、ファイ・スラマ・ジャマ(ダンク友愛会)と呼ばれるようになった。
華やかさだけでなく、実力も一級品だった。82、83年と2年続けてNCAAのファイナル・フォーに進出。83年にはランキング1位、優勝候補の最右翼と思われていた。だが、26連勝で迎えた決勝戦で格下のノースカロライナ州大に足を掬われた。スローテンポの試合展開に持ち込まれ、ダンクはわずか1本しか決められなかった。この試合は、今でもカレッジ・バスケットボール史上有数の番狂わせとして語り継がれている。
ドレクスラーにとって、優勝を果たせなかったのは心残りだったが、オールアメリカンに選ばれたこともあり、プロへの転向を決意した。だがNBAの評価は予想以上に低く、ポートランド・トレイルブレイザーズの14位指名だった。ジャンプショットが不安定で、ディフェンスもあまり良くなかったのがその理由だった。
「ジュリアス・アービングの再来だ」という声もある一方、「試合が決まってからショーを演じるだけのダンカーに過ぎない」という評価もあった。それでも、名将ジャック・ラムジーの下でアウトサイドシュートの改善に取り組んだドレクスラーは、着実に力をつけ、3年目にはオールスターに選ばれるまでに成長した。
大学に留まったオラジュワンは、84年に3年連続でファイナル・フォーに進んだが、ジョージタウン大のパトリック・ユーイングとのビッグマン対決に敗れ、またも涙を呑んだ。
それでも84年のドラフトでは最高の評価を得て、1位で指名されることは確実だった。当時のドラフトでは、東西両カンファレンスの最下位球団がコイントスをして1、2位の指名順位を決めていた。この年はウエスタン最下位のロケッツと、イースタン最下位のインディアナ・ペイサーズから指名権を獲得していたブレイザーズがコイントスに臨んだ。
結果的にオラジュワンは表を選んだロケッツに指名されたが、もし裏が出ていればブレイザーズに指名され、再びドレクスラーとチームメイトになっていたはずだ(センターが欲しかったブレイザーズは、2位指名権を使って、マイケル・ジョーダンを差し置いてサム・ブーイというビッグマンを獲得した)。(後編に続く)
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2004年6月号原稿に加筆・修正
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