1946年に創設されたNBAは、翌47年からドラフト制度を開始させ、時代によってルールを変えながら現在に至っている。
昨年7月までに計75回のドラフトが行なわれてきたが、年代関係なく指名順位に限定してチームを結成した場合、その顔ぶれはどうなるのか。今回は"ドラフト2位指名"の最強チームを、アメリカンスポーツに精通する識者に選んでもらった。
【ポイントガード】
アイザイア・トーマス
1961年4月30日生。185センチ・82キロ
1981年ドラフト2位
キャリアスタッツ:979試合、平均19.2点、3.6リバウンド、9.3アシスト
1位指名ベスト5と同じく、1966年以降のドラフトから選出する。2位指名のPGは名選手が多く、「史上最高の75人」に選ばれた者だけでもデイブ・ビング、トーマス、ゲイリー・ペイトン、ジェイソン・キッドと4人いるが、1人選ぶならトーマスだろう。
名門インディアナ大で活躍し、アメリカがボイコットした80年モスクワ五輪の幻の代表でもあった。81年のドラフトではデトロイト・ピストンズの2位指名。1位は少年時代からの友人で、五輪代表でも一緒のマーク・アグワイアだった。
冷静沈着なプレーメーカーと、自ら得点を量産するエーススコアラーの2つの顔を持ち、1年目から12年連続でオールスターに出場。弱小球団だったピストンズを89、90年に2年連続優勝を果たす強豪へ変貌させた。試合中に足を捻きながら43得点を叩き出した88年ファイナルでの奮闘も記憶に残る。
現役のジャ・モラント(メンフィス・グリズリーズ/2019年2位)も、将来的にこの偉大な面子に加わるかもしれない。
【シューティングガード】
アール・モンロー
1944年11月21日生。191センチ・84キロ
1967年ドラフト2位
キャリアスタッツ:926試合、平均18.8点、3.0リバウンド、3.9アシスト
PGの充実ぶりに比べると、SGはいささか物足りない顔触れだ。しかしながらモンローだけは、ニックネームの"ザ・パール(真珠)"にふさわしい輝きを放っている。フィラデルフィアのプレーグラウンドでは"ジーザス"と崇められた伝説的な存在で、ウィンストンセーラム州大時代には年間平均で40点を記録。
67年の2位指名でボルティモア・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)に入団すると「自分でもどんな動きをするか予測できないのだから、相手はもっと無理だろう」と嘯いた芸術的ムーブを駆使し、たちまち人気選手となった。1年目は平均24.3点で新人王、翌年はオールNBA1stチーム入り。ドラフト同期のウォルト・フレイジャーには「神様でも1対1ではあいつをガードできない」と言われた。
71-72シーズン途中にニューヨーク・ニックスへ移籍。名PGのフレイジャーと組んだガードコンビの豪華さは"ロールス・ロイス・バックコート"の異名を取り、73年に優勝を果たしている。
昨年7月までに計75回のドラフトが行なわれてきたが、年代関係なく指名順位に限定してチームを結成した場合、その顔ぶれはどうなるのか。今回は"ドラフト2位指名"の最強チームを、アメリカンスポーツに精通する識者に選んでもらった。
【ポイントガード】
アイザイア・トーマス
1961年4月30日生。185センチ・82キロ
1981年ドラフト2位
キャリアスタッツ:979試合、平均19.2点、3.6リバウンド、9.3アシスト
1位指名ベスト5と同じく、1966年以降のドラフトから選出する。2位指名のPGは名選手が多く、「史上最高の75人」に選ばれた者だけでもデイブ・ビング、トーマス、ゲイリー・ペイトン、ジェイソン・キッドと4人いるが、1人選ぶならトーマスだろう。
名門インディアナ大で活躍し、アメリカがボイコットした80年モスクワ五輪の幻の代表でもあった。81年のドラフトではデトロイト・ピストンズの2位指名。1位は少年時代からの友人で、五輪代表でも一緒のマーク・アグワイアだった。
冷静沈着なプレーメーカーと、自ら得点を量産するエーススコアラーの2つの顔を持ち、1年目から12年連続でオールスターに出場。弱小球団だったピストンズを89、90年に2年連続優勝を果たす強豪へ変貌させた。試合中に足を捻きながら43得点を叩き出した88年ファイナルでの奮闘も記憶に残る。
現役のジャ・モラント(メンフィス・グリズリーズ/2019年2位)も、将来的にこの偉大な面子に加わるかもしれない。
【シューティングガード】
アール・モンロー
1944年11月21日生。191センチ・84キロ
1967年ドラフト2位
キャリアスタッツ:926試合、平均18.8点、3.0リバウンド、3.9アシスト
PGの充実ぶりに比べると、SGはいささか物足りない顔触れだ。しかしながらモンローだけは、ニックネームの"ザ・パール(真珠)"にふさわしい輝きを放っている。フィラデルフィアのプレーグラウンドでは"ジーザス"と崇められた伝説的な存在で、ウィンストンセーラム州大時代には年間平均で40点を記録。
67年の2位指名でボルティモア・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)に入団すると「自分でもどんな動きをするか予測できないのだから、相手はもっと無理だろう」と嘯いた芸術的ムーブを駆使し、たちまち人気選手となった。1年目は平均24.3点で新人王、翌年はオールNBA1stチーム入り。ドラフト同期のウォルト・フレイジャーには「神様でも1対1ではあいつをガードできない」と言われた。
71-72シーズン途中にニューヨーク・ニックスへ移籍。名PGのフレイジャーと組んだガードコンビの豪華さは"ロールス・ロイス・バックコート"の異名を取り、73年に優勝を果たしている。