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NBA選手から政治家への華麗なる転身。“聖人”ケビン・ジョンソンの模範的なキャリア【レジェンド列伝・後編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2023.04.19

引退後は政治家に転身したKJ。生まれ故郷サクラメントの市長を立派に勤め上げた。(C)Getty Images

■キャリア最盛期にはファイナルにも出場

 1992-93シーズン、サンズは優勝を目指してフィラデルフィア・セブンティシクサーズからバークレーを獲得する。言動も行動も型破りのバークレーと生真面目なKJは、必ずしも肌の合う間柄ではなかった。

「本物のスーパースターと一緒にプレーできるのだから、多少自分のプレースタイルを犠牲にしたって構わない」とKJは言っていたものの、競争心に富むアスリートの常として、チームの顔から2番手に後退したことを、本音では面白く思ってはいなかった。

 それでも、彼らには勝利に対する執着心の強さという共通点があった。この年シーズンMVPに選ばれたバークレーの活躍もあって、サンズはリーグ最高の62勝をあげ、17年ぶりにファイナル進出を果たす。

 対戦相手は3連覇を目指すシカゴ・ブルズ。気合いが空回りしたのか、KJは第1戦で11得点、第2戦も4得点に終わり、第4クォーターではベンチに下げられる有様だった。だがトリプルオーバータイムの大激戦となった第3戦は62分も出場して20得点、9アシスト。守備でもダン・マーリーに代わってジョーダンをマークし、24本ものシュートミスを誘って勝利に結びつけた。
 
「まさに精根尽き果てたといった感じだったね。でも史上最高の選手を相手にして、絶対勝たなければならない状態にあって、それを成し遂げたんだ。チーム全員が情熱とエナジーを持って戦ったからこそ勝てたんだ」

 第5戦にも勝ってフェニックスに戻ってきたサンズは、第6戦も劣勢を跳ね返し終盤にリードを奪う。しかしジョン・パクソンに3ポイントを決められ逆転を許すと、最後の望みを託したKJのシュートもブロックされ、念願の王座には届かなかった。

 1994年には負傷したトーマスに代わり、ドリームチームⅡのメンバーとして世界選手権(現ワールドカップ)に出場。1992年のバルセロナ五輪にも出場を熱望し、当初代表10名が発表された際には「10人中9人は正しい選択だ」と悔しがった彼にとっては、待ちに待った栄誉だった。

 ただ、この頃から毎年のように故障に悩まされるようになる。恵まれた体格ではないにもかかわらず、毎試合100%の力を出し切っていた皺寄せが来たのだ。1992-93シーズンは49試合の出場にとどまり、4年続いていた2桁アシストが途切れると、1997-98シーズンは平均得点も1桁に落ち込み、同年を最後に一旦コートを後にする。
 
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引退後はサクラメント市長に転身