専門5誌オリジナル情報満載のスポーツ総合サイト

  • サッカーダイジェスト
  • WORLD SOCCER DIGEST
  • スマッシュ
  • DUNK SHOT
  • Slugger
NBA

“ジョーダンの影”を拒んだ男、ホーレス・グラント。「誰からも好かれる好漢」がブルズと袂を分かつまで【NBA名脇役列伝・前編】

出野哲也

2020.05.06

グラント(手前)の成長により、ジョーダンの用心棒だったオークリー(奥)はニックスへ放出された。(C)Getty Images

グラント(手前)の成長により、ジョーダンの用心棒だったオークリー(奥)はニックスへ放出された。(C)Getty Images

 ハービーも1988年のドラフトでブレッツに12位指名を受け、3年連続で平均18点以上をあげる好選手となったが、兄はさらにその上を行った。大学4年時には平均21.0点、9.6リバウンド、フィールドゴール成功率65.6%をマークし、クレムソン大では初となるカンファレンス最優秀選手に選出。当時「アトランティック・コースト・カンファレンスで最も支配的な選手」と呼ばれた。

 敏捷な動きとバスケットボールIQの高さ、そして常に全力を尽くす姿勢が評価され、ライバル校であるデューク大のマイク・シャシェフスキー・ヘッドコーチ(HC)は「いつも前向きで、己を制御でき、リーダーシップも備える。もともと能力が高い上にハードワーカーでもあるのだから、間違いなく彼は成功するだろう」と絶賛した。
 
 NBAでは、とりわけブルズのアシスタントコーチ、ジョン・バックがグラントを買っていた。ゼネラルマネージャーのジェリー・クラウスは、1987年のドラフト直前までノースカロライナ大のジョー・ウルフ(元ロサンゼルス・クリッパーズほか)とグラントのどちらを選ぶか迷っていたのだが、結局はコーチ陣が全員一致で推したグラントを全体10位で指名する。

 ブルズ入団1年目はチャールズ・オークリーの控えパワーフォワードとしてプレーしながら――また練習時にそのオークリーとマッチアップすることで――グラントは急速に経験値を高めていく。当時のダグ・コリンズHCも、グラントと同期入団のスコッティ・ピッペンの2人がブルズの将来を担うタレントだと確信し、彼らを徹底的に鍛えた。

 そして、グラントの着実な成長を認めたブルズ首脳陣は、翌1988年にビル・カートライトとの交換でオークリーをニューヨーク・ニックスへ放出する。“用心棒”とも言える存在を失ったジョーダンはこのトレードに不満げだったが、しかしオークリーが去った1988-89シーズン、グラントはチームトップの平均8.6リバウンドを稼ぎ、自身の価値を証明してみせた。
 
NEXT
PAGE

RECOMMENDオススメ情報

MAGAZINE雑誌最新号