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NBA

ジョーダンに認めさせ、ブルズの前期3連覇に貢献したカートライト。引退後は指導者として日本でも活躍【NBA名脇役列伝・後編】

出野哲也

2020.05.30

■引退後はコーチの道へ進み、異国の地でも奮闘

 カートライトのブルズでの役割は、ニックス時代とは大きく異なった。ジョーダンやスコッティ・ピッペンのいるチームに点取り屋は必要なく、求められたのはディフェンスと、ペイント内での威圧感だった。

「好き嫌いに関係なく、プレーしたければ適応しなければならない」とカートライトは自らの任務を遂行。ブルズの最大の宿敵で、ラフプレーで名を馳せたデトロイト・ピストンズにも、彼は先頭を切って立ち向かう。必ずしも意図的ではなかったが、リバウンドやシュートの際に繰り出されるエルボーに、さすがの悪童軍団も恐れをなした。

「ビルがリック・マホーンやビル・レインビアから守ってくれたおかげで、スコッティやホーレスがどれほど助けられたかわからない」(フィル・ジャクソン・ヘッドコーチ)

 ピストンズの壁を乗り越えたブルズは黄金時代を築く。1991年に初めてファイナルに勝ち進むと、ロサンゼルス・レイカーズを5戦で下して初優勝。1992年はポートランド・トレイルブレイザーズ、1993年にはフェニックス・サンズを倒して3連覇を成し遂げる。個人成績は平凡だったが、縁の下の力持ちとしてカートライトがブルズで果たした役割は、とてつもなく大きかった。
 
 シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)で現役最後の1年を過ごし、1995年に引退してコーチの道へ。NBAでの出場試合数963は、奇しくも大学の大先輩ビル・ラッセル(元ボストン・セルティックス)と同じだった。

 その2年後には早くもアシスタントコーチとしてブルズに戻り、1997、98年と優勝を経験。2001-02シーズン途中から約2年間はブルズの指揮官、以降もニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツとサンズで4年ずつアシスタントコーチを務めるなど、その指導力は高く評価された。

 2013年1月には、当時bjリーグだった大阪エヴェッサのヘッドコーチに就任。その際に、大阪府の高校で起こったバスケットボール部員の自殺事件に関してコメントしたことで、一般のニュースでも彼の名前が取り上げられた。

「何よりも大事なのは基本だ。昨今のNBAでは身体能力ばかりが重視されるが、強いチームはみな基本がしっかりしている」と指導方針を語っていたカートライトだったが、結局エヴェッサの指揮を執ったのは同シーズン限り。その後はメキシコ代表の監督なども務めたがさしたる成果は得られず、現在は母校サンフランシスコ大で働いている。

 ジョーダンやピッペン、グラントに比べれば地味だったかもしれない。だが、戦力的にもチームの和を保つ上でも、カートライトの存在は極めて重要だったのである。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2013年5月号掲載原稿に加筆・修正。

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