■引退後は家庭優先を貫くも、2013年から古巣サンズのHCに
98、2000年には2大会連続でオールスターの3ポイントコンテストで優勝(99年はロックアウトにより中止)。00年は自己最高にしてリーグトップのフリースロー成功率95.0%を記録(年間で180本放ち9本しか落とさなかった)した上に、3ポイント成功率47.8%もリーグ2位と、まだ十分に余力は残っていたが、ヒザの痛みもあって、この年限りでの現役引退を表明した。
「妻に家事や子どもの世話をずっと任せてきたから、今度は僕が“ミスター・ママ”になって、彼女がしたいことをする番だ」
その言葉通り、引退後のホーナセックは家族優先の姿勢を貫く。シュート不振に悩むアンドレイ・キリレンコの個人指導をジャズから依頼された際も、子どもたちの学校行事などがない時限定で引き受けた。
2008年にブルズからHC就任を打診された際には、熟慮の末に辞退している。だがそれから3年。その昔、テレビカメラの向こう側からメッセージを送った子どもたち――長男ライアンはグーグル、次男タイラーはFOXスポーツで働き、長女アビゲイルはスポーツリポーターとなった――の成長を待って、ホーナセックは10年にアシスタントコーチとしてジャズに復帰。13年からはサンズとニューヨーク・ニックスのHCを5年間にわたって務めた。
「誰もがジョーダンになれるわけじゃない。でも僕になれる人なら100万人はいるよ(笑)」
現役時代にホーナセックはこのように語っていた。決して自らを卑下しているわけではない。突出した才能に恵まれなくとも、努力次第でオールスター選手に成長できるとの自負が、そこには込められているのだ。
「自分に自信を持てない若者は、ジェフのポスターを部屋に貼ればいい。彼に出来るなら俺にも出来るって気になるはずだよ」とはマローンの弁だ。理由はどうあれ、ホーナセックのポスターを貼っている子どもがいれば、それはきっと見た目の派手さだけを追うのではない、違いの分かるバスケ少年に違いない。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2013年8月号掲載原稿に加筆・修正。
98、2000年には2大会連続でオールスターの3ポイントコンテストで優勝(99年はロックアウトにより中止)。00年は自己最高にしてリーグトップのフリースロー成功率95.0%を記録(年間で180本放ち9本しか落とさなかった)した上に、3ポイント成功率47.8%もリーグ2位と、まだ十分に余力は残っていたが、ヒザの痛みもあって、この年限りでの現役引退を表明した。
「妻に家事や子どもの世話をずっと任せてきたから、今度は僕が“ミスター・ママ”になって、彼女がしたいことをする番だ」
その言葉通り、引退後のホーナセックは家族優先の姿勢を貫く。シュート不振に悩むアンドレイ・キリレンコの個人指導をジャズから依頼された際も、子どもたちの学校行事などがない時限定で引き受けた。
2008年にブルズからHC就任を打診された際には、熟慮の末に辞退している。だがそれから3年。その昔、テレビカメラの向こう側からメッセージを送った子どもたち――長男ライアンはグーグル、次男タイラーはFOXスポーツで働き、長女アビゲイルはスポーツリポーターとなった――の成長を待って、ホーナセックは10年にアシスタントコーチとしてジャズに復帰。13年からはサンズとニューヨーク・ニックスのHCを5年間にわたって務めた。
「誰もがジョーダンになれるわけじゃない。でも僕になれる人なら100万人はいるよ(笑)」
現役時代にホーナセックはこのように語っていた。決して自らを卑下しているわけではない。突出した才能に恵まれなくとも、努力次第でオールスター選手に成長できるとの自負が、そこには込められているのだ。
「自分に自信を持てない若者は、ジェフのポスターを部屋に貼ればいい。彼に出来るなら俺にも出来るって気になるはずだよ」とはマローンの弁だ。理由はどうあれ、ホーナセックのポスターを貼っている子どもがいれば、それはきっと見た目の派手さだけを追うのではない、違いの分かるバスケ少年に違いない。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2013年8月号掲載原稿に加筆・修正。