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NBA

「社会の不公平に断固たる態度を取ることを誇りに思う」引退後も闘い続ける真の戦士ビル・ラッセル【NBA秘話・後編】

大井成義

2020.06.06

1967年に、アリ(前列左から2人目)が徴兵をボイコットした際の記者会見にも出席。アスリートの中では、公民権運動の先駆者的存在だった。(C)Getty Images

1967年に、アリ(前列左から2人目)が徴兵をボイコットした際の記者会見にも出席。アスリートの中では、公民権運動の先駆者的存在だった。(C)Getty Images

 憎しみは増幅していき、何者かがラッセルの留守宅に侵入し、壁にスプレーで差別用語を落書きしたうえ、トロフィーを破壊し、ベッドの上に排泄物を撒き散らすという事件が起きてしまう。脅迫の手紙が届くこともしばしばだった。それらを受けてラッセルは、ボストンを〝レイシズムの蚤の市〞と表現。チームメイトのトム・ハインソーンは、「彼はボストンに敵意を持っていた」とも語っている。メディアとも対立を深め、〝最も利己的かつぶっきらぼうで非協力的なアスリート〞と酷評されたこともあった。

 現役最後となる1968-69シーズン、満身創痍ながらチームを優勝に導いたが、祝賀パレードにラッセルの姿はなく、そのまま引退を表明し姿を消した。それなのに、自身の引退ストーリーを『スポーツイラストレイテッド』誌に1万ドルで売るという行動に出る。それは、セルティックスファンの気持ちを踏みにじる行為だった。

 現役引退から3年後の1972年3月12日、日曜日のその日はボストン・ガーデンで午後に試合が予定されていた。試合前のまだ観客がいない時間に、アワーバックとラッセル、昔のチームメイト、合わせて十人程度がコートに集まり、ラッセルの背番号6のバナーが天井に吊るされた。アワーバックは試合のハーフタイムでの開催を勧めたが、その簡素な永久欠番セレモニーが、ラッセルの望んだやり方だった。

 その後長い間、ラッセルがボストンの街に姿を見せることはなかった。
 
■ようやく平穏な日々が訪れるも、差別に対する戦いはいまだに続く

 ウィルト・チェンバレンは現役時代のラッセルにとって最大のライバルであり、親しい友人でもあった。感謝祭にはチェンバレンがラッセルを自宅に招くなど、お互いの家を行き来するほどの仲だった。ところが1969年のNBAファイナル第7戦で、ヒザにケガを負ったチェンバレンが試合残り6分にコートを退くと、試合後ラッセルはレポーターに「仮病だ」、「敗戦の責任逃れだ」と批判的なコメントをぶつけた。

 その話を耳にしたチェンバレンは激怒。ラッセルを〝裏切り者〞とみなすようになる。実際、チェンバレンのケガは深刻で、翌シーズンにまで影響を及ぼすほどだった。それから20年間、2人は一切口を利かなかったという。それでも、時はすべてを洗い流してくれる。ラッセルがチェンバレンに謝罪し2人は和解。

 そして1999年5月6日、フリート・センター(現TDガーデン)で、ラッセルの永久欠番〝再〞セレモニーが、満員のセルティックスファンが見守るなか執り行なわれた。セレモニーには仲直りをしたチェンバレンをはじめ、ボブ・クージー、ジョン・ハブリチェック、ラリー・バード、ジャバー、ジュリアス・アービング、オスカー・ロバートソンなど、レジェンド中のレジェンドが一同に集結。イベントの前にはチェンバレンと、あのファイナル第7戦から30年ぶりとなる1on1をプレーしたそうだ。
 

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