頭脳派と言えば、マイアミ・ヒートの球団社長パット・ライリーも現役時代は12番だった。9年のキャリアで平均2桁得点をマークした年は1度しかなく、選手として一流とは言い難かったが、HCとしてはレイカーズを4度、ヒートをチーム史上初のチャンピオンに導き、通算1210勝は史上5位の好成績だ。通算1042勝で同9位のリック・アデルマンも現役時代は主に12番。4球団でHCを務め、91年にロケッツで最優秀コーチ賞を受賞したドン・チェイニーは、ライリーがレイカーズを退団した際、12番を譲り受けた。また、70~80年代に人気を博した名選手ピート・マラビッチの実父で、大学で30年近くもコーチを務めたプレス・マラビッチも、選手としてプレーした唯一のシーズン(47年)に12番をつけていた。
12番の永久欠番はストックトン、ボウエンのほかに3人いる。モーリス・ストークスは病気のためにNBAでは3年しかプレーできなかったが、56年に新人王、3年連続オールスターに選ばれ、シンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)の欠番に。オスカー・ロバートソンが大学時代に背番号12だったのも、ストークスに憧れていたからだそうだ。前述のディバッツがキングスに移籍した際、12番から21番に変えたのはストークスの欠番だったためである。
ニューヨーク・ニックスのディック・バーネットは70年の初優勝時にウィリス・リード、ウォルト・フレイジャーに次ぐ第3の得点源としてチームを支えた。もう1人はデンバー・ナゲッツなどで46回もトリプルダブルを達成した万能選手ファット・リーバーで、3年前に12番で5人目の欠番になっている。
そのほか著名な12番を年代順に挙げていくと、58年の得点王で殿堂入りもしているジョージ・ヤードリー、ブレイザーズのダンク王として短期間ながら強烈な印象を残したビリー・レイ・ベイツ、80~90年代にダラス・マーベリックスの主力だったデレク・ハーパー。01年から4年間、リーグの選手会長を務めたマイケル・カリー、シカゴ・ブルズの先発PGカーク・ハインリック、5球団で12番を背負った守備職人ルーク・バー・ア・ムーテといったところか。
実はマイケル・ジョーダンも、90年2月14日のマジック戦で1試合限定ながら12番を着用している。これは試合前に23番のジャージーを盗まれ、チームが急遽用意したものだったが、その影響をまったく感じさせず、ゲーム最多の49得点を叩き出してみせた。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2013年11月号掲載原稿に加筆・修正。
12番の永久欠番はストックトン、ボウエンのほかに3人いる。モーリス・ストークスは病気のためにNBAでは3年しかプレーできなかったが、56年に新人王、3年連続オールスターに選ばれ、シンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)の欠番に。オスカー・ロバートソンが大学時代に背番号12だったのも、ストークスに憧れていたからだそうだ。前述のディバッツがキングスに移籍した際、12番から21番に変えたのはストークスの欠番だったためである。
ニューヨーク・ニックスのディック・バーネットは70年の初優勝時にウィリス・リード、ウォルト・フレイジャーに次ぐ第3の得点源としてチームを支えた。もう1人はデンバー・ナゲッツなどで46回もトリプルダブルを達成した万能選手ファット・リーバーで、3年前に12番で5人目の欠番になっている。
そのほか著名な12番を年代順に挙げていくと、58年の得点王で殿堂入りもしているジョージ・ヤードリー、ブレイザーズのダンク王として短期間ながら強烈な印象を残したビリー・レイ・ベイツ、80~90年代にダラス・マーベリックスの主力だったデレク・ハーパー。01年から4年間、リーグの選手会長を務めたマイケル・カリー、シカゴ・ブルズの先発PGカーク・ハインリック、5球団で12番を背負った守備職人ルーク・バー・ア・ムーテといったところか。
実はマイケル・ジョーダンも、90年2月14日のマジック戦で1試合限定ながら12番を着用している。これは試合前に23番のジャージーを盗まれ、チームが急遽用意したものだったが、その影響をまったく感じさせず、ゲーム最多の49得点を叩き出してみせた。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2013年11月号掲載原稿に加筆・修正。