小柄ながらブロックも上手く、2006年の世界選手権、101-95でギリシャ代表が“ドリームチーム”を撃破した準決勝のアメリカ戦でも、クリス・ポール(オクラホマシティ・サンダー)のシュートを後方から阻止。さらにアリウープパスも得意で、彼と組むことで多くのセンターがプレーの質を向上させたとも言われている。
2016年夏に引退するまで、17年間のプロキャリアでマークした平均8.4点は目を見張るほどの数字ではない。しかし、どのアングルからも射抜ける3ポイントシュートは正確無比で、全盛期の成功率は5割超え。とりわけ、ここぞというクラッチタイムに沈めては、相手を奈落の底に突き落とした。
2005年のユーロバスケット準決勝のフランス戦では、ラスト5秒にディアマンティディスの3ポイントが突き刺さり、ギリシャが1点差で逆転勝ち。この劇的な結末は、“ベオグラードの奇跡”と語り継がれている。
それだけに、彼のラストゲームとなった宿敵オリンピアコスとの対戦が、“ビリー”こと僚友バシリス・スパヌーリスの3ポイントによる逆転勝利で終わったことは、ある意味象徴的とも言えるだろう。試合時間ラスト2秒、オリンピアコスが79-81の2点ビハインドで迎えた場面、スパヌーリスはマッチアップされたディアマンティディスの虚をついて決勝弾をヒット。こうして引導が渡され、試合後はさぞ憤慨しているかと思いきや、「あれがビリーだよ」とどこか嬉しそうに話した姿も、人格者と慕われたディアマンティディスの人柄を表わしていた。
また彼は、“ディミトリス・ディアマンティディス・ディフェンダー(Dimitoris Diamantidis Defender)”の頭文字をとって“3D”と呼ばれたほど、名ディフェンダーの代名詞でもあった。ヘッドコーチ陣の投票によるベスト・ディフェンダー賞が創設された2004-05シーズンから5年連続、さらに1年飛んで2010-11シーズンの計6回、欧州の最優秀守備選手に選ばれている。
彼がゲームに与える影響力の大きさを「バスケ界からマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)は消えたが、ディアマンティディスがいる」と例えた指導者もいたほど。対戦相手のベストスコアラーを苦しめる“エースキラー”は、どのコーチも欲しがる人材だった。
2016年夏に引退するまで、17年間のプロキャリアでマークした平均8.4点は目を見張るほどの数字ではない。しかし、どのアングルからも射抜ける3ポイントシュートは正確無比で、全盛期の成功率は5割超え。とりわけ、ここぞというクラッチタイムに沈めては、相手を奈落の底に突き落とした。
2005年のユーロバスケット準決勝のフランス戦では、ラスト5秒にディアマンティディスの3ポイントが突き刺さり、ギリシャが1点差で逆転勝ち。この劇的な結末は、“ベオグラードの奇跡”と語り継がれている。
それだけに、彼のラストゲームとなった宿敵オリンピアコスとの対戦が、“ビリー”こと僚友バシリス・スパヌーリスの3ポイントによる逆転勝利で終わったことは、ある意味象徴的とも言えるだろう。試合時間ラスト2秒、オリンピアコスが79-81の2点ビハインドで迎えた場面、スパヌーリスはマッチアップされたディアマンティディスの虚をついて決勝弾をヒット。こうして引導が渡され、試合後はさぞ憤慨しているかと思いきや、「あれがビリーだよ」とどこか嬉しそうに話した姿も、人格者と慕われたディアマンティディスの人柄を表わしていた。
また彼は、“ディミトリス・ディアマンティディス・ディフェンダー(Dimitoris Diamantidis Defender)”の頭文字をとって“3D”と呼ばれたほど、名ディフェンダーの代名詞でもあった。ヘッドコーチ陣の投票によるベスト・ディフェンダー賞が創設された2004-05シーズンから5年連続、さらに1年飛んで2010-11シーズンの計6回、欧州の最優秀守備選手に選ばれている。
彼がゲームに与える影響力の大きさを「バスケ界からマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)は消えたが、ディアマンティディスがいる」と例えた指導者もいたほど。対戦相手のベストスコアラーを苦しめる“エースキラー”は、どのコーチも欲しがる人材だった。